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いきなり結論めいたことを言うと、この映画『アイ・アム・サム』は2つの絵本をめぐるお話なのである。ん? 「そんなはずない、知的障害の父親と娘の感動的な(感じに作った)話だ」----なんてことを言ってるあなたは、映画をちゃんと観てないのだ!(←って断言するな!) 説明してみよう。
その「2つの絵本」とは、
・Dr.スース『緑のたまごとハム(Green Eggs and Ham)』[1960→未訳?](Random House他)
・ジャネル・キャノン『ともだち、なんだもん!----コウモリのステラルーナの話(Stellaluna)』[原著1993→邦訳1994](Harcourt他→ブックローン出版)
である。
『ともだち、なんだもん!』
Stellaluna.コウモリのステラル−ナの話

ジャネル・カノン、今江祥智、遠藤育枝
¥1,460 発行所=BL出版
Boople.comにて購入できます。
えー、まずドクター・スースの『緑のたまごとハム』。アチコチ調べてみたけど、どうも翻訳されてないらしい。でも、なぜか僕は幼少時に読んだ覚えがある。絵本の中でしつこく「食べない?」と誘うあたりを読んだか読んでもらったかした記憶があるのだ。かすかな記憶を辿って探し回ったんだけど締切りまでに見つからなかった。確か当時(60年代後半〜70年代あたり?)、月刊シリーズで絵本を訳してるような児童出版社もあったはずなので、そういうのに翻案でも載ってたのかもしれない(あ、託児所のような幼児英会話教室に3ヶ月ほど通ってた覚えもあるなぁ……そこでの記憶か??)。ま、調べられた限りで紹介してみよう(「裏バックス日誌2」に原文テキストあり)。

この絵本の出だしが「アイ・アム・サム(正確には「That Sam-I-am!」)」。主人公の友達の名がサム、またの名をサム・アイアムというのだ(ノベライズではちょっと間違って紹介されてるけど)。で、映画『アイ・アム・サム』の同名の主人公サム・ドーソンは、この絵本をこよなく愛していて、娘ルーシー・ダイヤモンド・ドーソンに何度も読み聴かせてあげるのだった。内容はヘンテコな(ちょい悪趣味な造形の)キャラが、友達の「ぼく」の食わず嫌いをなくそうとするってな話だ。ゆえに、サムがアイホップのパンケーキにこだわるあまり、新しくできたボブズ・ビッグ・ボーイのメニューを食わず嫌いして娘のルーシーに呆れられたり、ミシェル・ファイファー演じるリタがダイナーで細かい(細か過ぎる)オーダーをするのをサムが意味ありげに見てたりするシーンがあったりするのである。サムがしつこく『緑のたまごとハム』を朗読するってのも、この絵本自体のパロディだし、この映画自体を押しつけがましいと感じる人がいたら、それはドクター・スース流の仕掛けにマンマとハマっているのだとも言える。つまりこの映画は、たぶんアメリカでは「7歳児」までの基礎教養であると思われるこの絵本からモチーフ展開された「メタ絵本」寓話なのである……なんちって(←と、断定は避けてみたりして)。絵本『緑のたまごとハム』が主張してるのは、ひとまずは「食わず嫌いを直そう(あるいは普遍化して「試してもみないで諦めるな!」)」。なんだけどドクター・スース本って、映画になった『グリンチ』もだけど、キャラの絵はヘンテコ(ちょっとグロい)だわ、主人公のしつこい勧め方や勧める食べ物の異様さ(緑色の卵に緑色のハムって……)など、良識派の親御さんにはハラハラする要素があるみたい。子供から取り上げたりするヒス親もいるとかってのは、子供が喜ぶ「よい絵本」の証拠なんだけどね(笑)。「わがまま」と「個性」の峻別をめぐる議論もできそうだけど、まあ別の機会に譲って先を急ごう。そういや人工知能SFのフリをしたアメリカ現代文学、リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』(みすず書房)にも、ヘレンという人工知能に「くすりともしないですっ飛ば」される絵本として(同書P229に)題名だけしっかり出てきてたっけ……ってのは余談だ。

で、もうひとつの絵本『ともだち、なんだもん!』は、優れた絵本に与えられるABBY賞を1994年に受賞している。原題の「ステラルーナ」(映画のノベライズだと「ステラルナ」)ってのが大コウモリの赤ちゃんの女の子の名前(無理に翻訳するなら「星月」ちゃん?「夜空」ちゃん?)。フクロウに襲われて、お母さんとはぐれて鳥の巣に落っこちちゃった彼女が、その巣の3羽のヒナ達と仲良く成長する話だ。お母さんコウモリと再会もできて、めでたしめでたしだけど……ってな展開をする。このコウモリっ娘と小鳥達の会話----「どうしてぼくたちは、こんなに違うのに、気持ちは同じなんだろう」(訳はノベライズより)ってのが、人種問題をヴィヴィッドに抱えるアメリカらしいテーマを奏でる。「食わず嫌い解消(挑戦することの肯定)」に続く映画の第二主題「異種間の共存」だ。この絵本は映画の中盤少し前に、サムが詰まって上手く読めない単語を用意するアイテムとして登場する。彼が読めないその「different(違う、同じでない)」と「silence(静寂、黙る)」という単語は、その読解時の困難描写にも意味を持たせつつ、映画のキイトーンに対照的な調子を与えるために敢えて「読み損なうこと」を要請されている(だから実際の知的障害者にとってこの2単語を読むのが困難なのかどうかは、実は大事な問題じゃないのだ)。

まず「different=違う」こと。これはジェシー・ネルソン監督のデビュー作『コリーナ、コリーナ』(94)で既に現れていた(『ともだち、なんだもん!』同様の・同時多発的な)ライト・モチーフだ。50年代末頃を舞台にした『コリーナ、コリーナ』は、白人男性と黒人女性(「鳥と魚が恋したらどこに巣を作るの?」)、裕福なCM音楽家と貧乏な音楽批評家志望者、無神論者と幻想信仰者(無神論者にとっての)という「違い」が、母の死で「silence無口」の病になってしまった7歳の少女によって媒介され、やがて和解し共存してゆく物語だった。そんなモチーフが、本作では『ともだち、なんだもん!(ステラルーナ)』という絵本を2つ目のフックにして、いろんな「違うもの=異種」間の葛藤とその解消=共存の模索として描かれることになる。『アイ・アム・サム』で描かれる「違うもの(対立するもの)」とは、大人と子供、親と子----サム/ルーシー、リタ/ウィリー、コナーの父/コナー、映画には登場しないアニーの父/アニー、精神科医デイヴィス/そのヤク中の息子、ヤク中のママ/タマラ(映画には出てこないけど、ルーシーが福祉施設で会った子)、証言者ブレイク女医のIQ70の母/ブレイク女医、ターナー検事/その義母が世話する子供、あるいはリタの事務所に来てたどちらも親権を放棄するという両親とその子-----、そして健常者と障害者、または知能指数の高い人と低い人、あるいは成功者(勝ち組)とそうでない人(負け組)、リサイレント・チャイルド(ルーシー)とそうではない子供(ひとまずコナー君)、可哀想な人と可哀想じゃない人、悲観論者(児童福祉局のマーガレット・キャルグローブら)と楽観論者(サム側の人達)、はたまた高額な弁護料をとり時々点数稼ぎ的な弁護もする名声追求型エリート派弁護士とお金にならなくとも地味に頑張る人情型人権派検事(リタ/ターナー)、そして実の親と里親(サム/ランディ)etc.……だ。

それはさらに恐ろしいことに、ショーン・ペンという「名俳優が演じる/知的障害者」やダコタ・ファニングという「天才子役が演じる/利発な子供らしい子供」なんていうアンヴィバレンツなメタ映画的文脈にまで「違う」効果を波及させ、「違う」こと、そして違うのに共感可能なことの深い意味を観客に問いかけることになる。映画の中で演じられていることは、どのくらいリアルなのか所詮フィクションなのか? その映画作品という虚構は、観客側の現実に対して現実的な力(共感以上の?)をどのくらい持つのか? いや映画なんて現実逃避的な娯楽でいいというのなら、どのくらいの強度があれば「逃避」に値するクオリティと認定できるのか? 映画で表現される倫理的寓意の完璧さなんてのは、どのくらい要請されるべきなのか? よく「お約束」とか「ご都合主義」とかいう虚構に対する批評家のアリガチな価値判断ってのは、極端に言えばあらゆる虚構に当てはまるケナシ言葉なんだけど、じゃあこの映画はどのくらい「確信犯」なのか? あるいはこの映画を「女子供向け」とか「子供だまし」なんて言う「大人」の映画ファンは、女/男や子供/大人という対立項に基づくジャンル(評価)分けに、どのくらい有意な確信を持っているのか? この映画に共感できない人はさておき、共感して感動した人は果たしてこの映画の全てを、作り手側の伝えたかったそのままに享受しているのか? それとも誤解の上で感動しているのだろうか? また僕と意見の「違う」人=この映画を全否定する人との間には、何が横たわっていて、どうすれば共感可能な調整が成されうるのか? ……そういう作品内を超えたレヴェルでの問いが、本作の批判者も認める優れた俳優によって「演じられた」ことで、より強度を持って迫ってくることに、僕らは気がつかなければならないはずなのだ。いかん、ちょいムキになってる。絵本『ともだち、なんだもん!』に戻ろう。


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