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2つ目の単語「silence=沈黙」についてもちょっと余談めいた話で検討しよう。その単語のヴァリエーション「silent」=黙り込むことで精神的危機から逃れ、そして世界(神?)に対して抗議した『コリーナ、コリーナ』の少女モリンチカことモリーも、ある意味でルーシーと同じく(天才子役によって演じられた)「resilent childリサイレント・チャイルド」だったことを想起したい。『アイ・アム・サム』のプログラム解説(P24)にあったこの「リサイレント・チャイルド」って言葉、要は「親はなくとも子は育つ」っていうか、健常者ではない親を持つ子供が一般的な子供より却って環境に順応する柔軟性を持っているという現象から名付けられた語。なんだけど----考えてみれば「silent 無口な、静かな」に「re-」がつくだけで「跳ね返る、弾力のある、立ち直りの早い」って意味になることの面白さも含めて----サムの発語を邪魔する「silence」から鮮やかに反転・発展してゆくイメージ・タームだ。そして映画は「声なき人々silent majority」の複雑で多様多彩な声を、繊細に聞きとろうと懸命に、でも七面倒くさくならないようになるべく単純化して寓話的に表現しようとしているとも言える。法曹界に代表される(弁護士同士の)“強者(適者)競争原理”と福祉局などの“弱者(敗者)救済原理”が、同じ土俵で闘う時に先鋭化する問題の厄介さは、やる気のない失業者にある程度手厚いイギリス、酒浸りのネイティヴ(居留地先住民)を生むアメリカ、そして高齢者福祉を個人負担にシフトさせつつある日本などの現状を真面目に考えれば、一筋縄ではいかないことは皆薄々わかっている(福祉先進国の北欧で断種政策が実施されてきたことも考慮すべきか)。それらはケースバイケースでしか裁けないってのが順当な意見で、既成判例はどちらかの正義を普遍的に保障するものではないのがリアルな現実のはずだ。だから本作では悪役の役回りを演じている児童福祉局のソーシャル・ワーカーが、このケースにおいて「勘違いしていること」は観客側には示されているし(サムの買春容疑と誕生日パーティでの暴力行為は誤解だし、略取逃亡は娘のせいだ)、本来は映画では描かれないアニーと父親との問題(ノベライズ参照、だが映画からだけでも敏感な人はわかる)においてこそ福祉局が介入すべきケースだったとも観客に感じさせる。それが声なき人々のフツーの感覚であり、杓子定規な問題の捉え方=「子供の養育能力」なんて実測出来もしない抽象論については「普遍的な正解はない」ともわかるように作られている。

ちなみに養育権をめぐる法廷もの映画の系譜では、本作である種風刺的に引用される『クレイマー、クレイマー』(79)ではイジワルく言えば感情論的解決だった。裁判は離婚した母が勝つが、父と一緒にいてもいいことにしてあげるって結末。本作もハッピーエンドなパターンを引用元から忠実に踏襲しているワケだ。『レディバード・レディバード』(94)では一人のブルース歌手の身の上話という枠で、福祉局の官僚主義批判をやはり感情的に訴える(『ストレイト・ストーリー』(99)にも同じ理由で子供を取り上げられる軽い知的障害の女性ローズが出てきたっけ。ほら、4人の子供を取り上げられたという主人公のジイサンの娘だ。あと妊娠して家出したとかいう若い娘も出てたな)。そして『代理人』(95)ではヤク中の黒人女性(演じるのは『チョコレート』のハル・ベリー!)の捨てた子供を、裕福な白人の里親が愛情を込めて育てるが、更生したその実母が人種的な同質性を盾に養育権を勝ち取る……という法的解決があり、結末にやはり実親と里親双方による子育ての可能性がチラリと描かれていた(こうした解決の延長線上には「子供は共同体全員の宝」的モラル観があり、それもまた長短のある複雑な評価が発生するが、ここでは略)。この場合、現実の50-60年代的な人種差別を批判する94年の『コリーナ、コリーナ』で提示された人種融和型の解決案は、現代になって人種(民族)的独立(棲み分け?)の風潮がリバウンドする形で「流行」しつつある95年の『代理人』に、少し冷や水を浴びせられる形になっているとも言える。ここでもどちらが正しいかは普遍的には判断不能で、解決策は映画毎、製作時毎、ディテール毎に異なるはずだ。だから『コリーナ、コリーナ』が牧歌的・寓話的で『代理人』の方が少し現実的だとか、『クレイマー、クレイマー』も含めてみんな結末がご都合主義だとか文句をつけたり、映画の「その後」を悲観的に想像して、『クレイマー、クレイマー』の息子ビリー、『レディバード・レディバード』の6人の子、『代理人』の白人に4歳まで育てられた黒人少年イザヤ、そして『アイ・アム・サム』のルーシーといった“法廷で争われた子供達”の将来の姿を、まるで確定した未来みたいに考えて、そこから逆算して判決や結末の良し悪しを問うたりするなんてのは、それぞれの映画内の“虚構度”の差を無視することだし、個人的にはバカのすることだと思う(ま、ひどいバランスの映画もあるにはあるけどさ)。と、また余談になってる。

というワケで小結論。『アイ・アム・サム』は、だから「食わず嫌いを狭いモノの見方から解放する(可能性を肯定する)」物語であり、そして「異種間の共存の可能性」をめぐる物語であるという、2つの絵本のメタ寓話なのだ。……と、こういうと、映画に少し引用されただけの絵本を過大視し過ぎてる、とか言われそうだな。では『クレイマー、クレイマー』の名場面を暗唱してみせるサム達について、(上記余談でちょとやっちゃったみたいに)その映画史的教養を云々して映画の主題と絡めてみたり、あるいはビートルズの全曲を暗記し、あまつさえメンバーの伝記的事実まで自らの窮地に照らして引用するビートルズ・オタクぶりを見せるサム達について、その現代音楽史的教養を映画に絡めて云々したりする------つまり“いち映画ファン”あるいは“いちビートルズ・ファン”として嬉しそうにコメントすることも、この映画の「要素」でしかないものを「過大視し過ぎ」てることになるのだろうか? あるいはそうした「引用」は映画の本筋ではないって観方に徹するべきだ、とか? いや、確かにこれらは例えば『論語』や故事成語とか聖書なんかを処世訓として引用する偉い人達の戯画(風刺的パロディ)であるってな観方もアリだろうとは思う。要するに、いわゆる映画評論家っぽい人が映画の良し悪しを、過去の映画の記憶から引いて自慢げな蘊蓄たれたり侃々諤々と評価したりする姿の「愚」を、知的障害者達のサヴァン的能力発揮シーンの数々によってオチョックってるのだ、という観方だ。それはそれで、この映画をケナす人達を嘲う方法でもあるんだけど……。それよりボクはいっそのこと、こう言ってみたい衝動に駆られるのだ----『アイ・アム・サム』は、全てが引用で成立するかもしれないという潜在的な問題提起(「映画」自体をリフレクティヴに破壊/再構築するポストモダン志向)を含みながら、一見まるでアリガチだがリアルな感動物語としても受容できるように作られた、かなり高度にメタフィクショナルな映画でもあるのだ、と。


『アイ・アム・サム』と2つの絵本とビートルズ、そしてメタ映画

『スチュアート・リトル2』の、よくできた「矛盾」について

傑作『ドニー・ダーコ』を語る前に、『タイムマシン』の迷路を彷徨う。

「死者」へのレクイエム――『ドニー・ダーコ』私論