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とはいえ『アイ・アム・サム』の登場人物の行動原理は、ビートルズだけに限られているのではなかったのだった。まるでブルース・リー映画にヤラれてカンフーしちゃう人みたいに、作中人物は危機に直面すると、過去の名作映画を参考にする。本作に引用される映画ってのを挙げてみると、『クレイマー、クレイマー』(79→日本公開80)、『風と共に去りぬ』(39→52、60周年の99年に9度目のリバイバルあり)、『オズの魔法使』(39→54)、『白鯨』(56→56)、『評決』(82→83)があった。もちろん映画マニアが毎月ビデオ鑑賞会を催してるって設定(第1木曜日、ちなみにたぶんビートルズ・メドレー大会のカラオケ会は第2・4金曜日、水曜日はアイホイップでパンケーキを食べる会だ)なので、もっと膨大な映画知識を彼らが持っていることは間違いない。でも固有名を挙げる、ということは作者サイドが敢えて最低限引用したい作品がこれらだった、とも考えられる。ハリウッド王道の名作揃いだが、僕は映画ライターの癖にTVで観たのがほとんどで、その記憶もうっすらしかない(恥)。パッと見、割と保守的なラインナップだなぁ、という感想しか持ち合わせなかったんだけど、それこそ普遍的な共通言語として通用するはずってな作り手側の計算も見える。ちなみにチラッと引用されるTVドラマでは『0012捕虜収容所』(12ch版邦題、TBS版の邦題は『OK捕虜収容所』)、『かわいい魔女ジニー』、『アイ・ラブ・ルーシー』、『宇宙家族ロビンソン』(別名『ロスト・イン・スペース』)などがあった。これらについて、その各々の内容や細部や主題が、映画『アイ・アム・サム』にいかに絡んでいるかってのを捏造するのも面白そうだけど(笑)、もっとコジツケ呼ばわりされそうなのでやめておく。それより全ての作品が日本でも既にTV放映などで紹介されているってことの方に、まず驚きたい。つまりアメリカとその従属国(?)の国民で、誰も観ていない(観られない)ようなのを挙げたりはしてないって絶妙さが、この映画の「わかりやすさ」という罠でもあるのだ。

余計な豆知識だけど『0012捕虜収容所(Hogan's heroes)』は映画版リメイクが進行中で、ラッセル・クロウに出演交渉してるとか。また同ドラマの主演俳優ボブ・クレインをグレッグ・キニアが演じる内幕モノ映画『Autofocus』ってのもあるらしい。さらなる余計な話だけど、最近エンドクレジットをきちんと採録してくれるプログラムが増えてて、この『アイ・アム・サム』にもあったので、映画を観た後いろいろ考えるのに役立ったのだった。偉い。映画の中で引用される映像が何かわかんなかった時とかって便利だ(いやもちろん引用がクレジットされない場合もあるし、『海辺の家』のプログラムみたいにエンドクレジットに出てた詩の引用とかが、一部省略されてるのもあるけどさ)。余談であった。

引用といえば、似た系列の既作品ってのも、観客サイドの記憶を揺さぶることになる。それは「アリガチ」とかいう悪評に繋がったりもするのだけど、「わかりやすさ」や(もっとわかる人には)既作品とのズレを鮮烈に表示するという効果を持つ。物語構造を、例えば誰もが知る「神話」に近いレヴェルにまで簡略化することでメッセージの強度を高め、また隙間を過去の例で補うことで寓意を豊饒化するなどのテクニックなのだと僕は思うんだけど……。というゴタクはさておき、観客にとって『アイ・アム・サム』から想起される過去の「知的障害者」もの、というか「イディオ・サヴァン」ものの話に入ろう。実は僕は『アルジャーノン』問題というのを個人的にずっと追っかけてて(知的障害の中年が手術で超天才になるが……ってSF『アルジャーノンに花束を』から問題追求が始まっているのでそう呼ぶ)、いわゆる「イディオ・サヴァン」が、いろんな問題を語るツールになっている現象を調査し続けている。この「イディオ・サヴァン ideot svant」ってのはひとまず、現在は「サヴァン症候群」と呼ばれる「天才的能力を発揮する知的障害者」のことだ。これが日本の大衆小説などでは「白痴賢者」「白痴天才」「愚者/賢者」に「イディオ・サヴァン」「イデオット・サヴァント」とかルビを振るカタチで使用されてて、実際の症例を直接描くというより、比喩や象徴として文学的(またはSF的)に使われることが多い。古くからある「聖なる愚者」とか、ソクラテス=プラトンの「無知の知」とか、「阿呆村の賢者」の伝説とか「宮廷道化」とか演劇の道化役とか、あるいは宮澤賢治の「でくのぼう」思想なんてのをアップ・トゥ・デートしたような概念として、最近でもアチコチで使われているのだ。例えばビートルズで言えば「フール・オン・ザ・ヒル」(67)、キング・クリムゾン「ダイナソー」(95)でも「白痴賢者の恐竜」として自伝的回想めいた詩が展開されていたりする。ってのが前もって知ってて欲しい豆知識かな。

では、『アイ・アム・サム』から想起した、「知的障害者」「イディオ・サヴァン」ものを列挙してみよう。何故か名優達が挑戦したがる映画の題材なので、役者名で挙げることにする。マジなサヴァンものだとポーカーの名手となる『レインマン』のダスティン・ホフマン。寓意的サヴァンものだと、ちょい保守寄りの成功をする『フォレスト・ガンプ』のトム・ハンクス、弟の金盗んで買ったスクラッチ宝くじを見事に当てる『ミフネ』のイエスパー・アスホルト、『静かな生活』の渡部篤郎も映画ではわかりにくいけど鳥の声や音楽のサヴァン役だ(実在するモデル大江光は作曲家になったし)。『ヘンリー・フール』のジェームズ・アーバニアク演じるサイモンも、過激な詩を書く詩人として成功する(映画自体の出来としては寓話にしても習作レヴェルだが)。また頭弱いけど力持ち系というサブ・ジャンルでは、『二十日鼠と人間』のジョン・マルコビッチ、『スリング・ブレイド』のビリー・ボブ・ソーントンあたり。『ロスト・チルドレン』の怪力男ロン・パールマンも入るかな。また日常生活がほぼ大丈夫なタイプでは女性陣が多いんだけど(これも女性を愚者に近しく考えるジェンダーな問題があるが)、『カーラの結婚宣言』のジュリエット・ルイス、『奇跡の海』のエミリー・ワトソン、あと『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークも少し(かなり?)頭が弱いか。『ヘンリー・フール』のサイモン君もこのタイプ、そして『アイ・アム・サム』のショーン・ペンもだ。映画の中の脇役として印象深いのでは、『ギルバート・グレイプ』のレオナルド・ディカプリオ、『ウィズ・ユー』のケビン・ベーコン(中国まで穴を掘ろうとする少女の方が主演だ)。そしてそれら「愚者」映画をメタ批判するような『イディオッツ』ってのもあった(批評性や実験精神は買う)。ちょっと路線は違うけど、病気から回復するまでのボーッとした状態を似たような演技でみせたのに、『レナードの朝』のロバート・デニーロや『心の旅』のハリソン・フォードも挙げられるかな。

こうした「サヴァン」系映画の系譜を追いかけていると、「迫真の演技」って何だろう?なんて思う瞬間がある。名優達が器用に「ホンモノ」らしく演じるのは、どちらかと言えば社会的ロールモデルに相応しいとされていない人々の姿だ。しかし文学的には「無垢」だとか「純粋」だとか「神聖な状態」を象徴する人々として、精神的に美しいものとして表現されがち。歌や小説や演劇などのフィクションにおいては、この現実/文学というアンヴィバレンツな境界領域に「サヴァン」がいるワケだ。それが映画というメディア----フィクションとしては生々しい、しかし決して現実そのものを写し取るものではないメディアで表象される時、絶えず識域下で響く「映画自体のニセモノ性」が特に気になりはじめる。「サヴァン」もの自体のメタフィクション性というのが、強調されるのだ。僕がノリつつサめるようなヒヤッとする感覚で「スターの名演技=白痴ぶり」にドキドキする時、映画と現実の間で何が起こっているのか?


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