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えーと。とにかくすぐさま『ドニー・ダーコ』を観よう! 『ドニー・ダーコ』を観てない人は映画やSFや哲学について語る資格はないかもだぞ、くらいのことを言っておいて、今回は終わりにしたいんだけど……。つーか、どこが“いい”のかを細かく説明されても面白くないだろうし、どっちにしろネタバレになっちゃうのだ。メイン・モチーフもいわゆる「多感でセンシティヴな青春」ってヤツなので、語り間違うと、たぶん感じやすい繊細な心を持った熱狂的『ドニー・ダーコ』ファンあたりに顰蹙を買うかも……うーむ。こういう「私/僕だけがこの映画を本当に理解できる」的な仕掛けを内蔵した作品って、下手をすると電波入ったみたいな書きぶりした方が似合うかもしれんから厄介で、主人公の「電波入ってる」D・D君に寄り添いたくもなりつつ、それもなかなか危うい気分なのだ。だから今回は『タイムマシン』のネタバレな話などから、『ターミネーター』経由で『サイン』やら『Retunerリターナー』やらまでちょいと触れて、長〜い前ふりとしようと思う。というか前ふり話のつもりだったのだが、タイム・トラベルのパラドックスめいた迷路をわかりやすく書こうとしたら、えらい長さになっちゃったのだ。トホホ。
『タイムマシン』
監督:サイモン・ウェルズ/原作:H・G・ウェルズ(「タイムマシン」角川文庫 刊)/出演:ガイ・ピアース、サマンサ・マンバほか

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思えば発端は夏公開の『タイムマシン』だった。僕は披露試写で観た時、中盤あたりの、あの凄まじい速度で80万年という時を駆けるタイムマシンの描写に圧倒された。なにより「SFならではの無常観」ってのを痛烈に味わったのだ。諸行無常・盛者必衰の悟りにも似た、何もかもが「ツワモノどもの夢の跡」ってな感じの、この冷徹で無情な感覚。人生の喜びや哀しみなんてけし粒のごとく無価値なものに思えるような、ひたすらクールに膨大な時間がただただ流れてゆくってスケール感にクラクラしてしまったのだ。これこそがSFの持つ科学的と言えば言える独特の寂しさであり、このシーンとするような、哀しみすら凍りつく峻厳なファクト感覚って、マゾヒスティックな(放置プレイめいた?)快感かもしれん。……ってな感じで感心しきり。「時を超える」という感覚にある、ある種の哀しみ、なんともいえない孤独感が、言葉の説明無しに雄弁に映像で語られること。これは例えば『A.I.』のクライマックスでも味わった光景なんだけど、あっちの方は本筋が「甘い少年(男ども)の夢=テカテカした冒険の果てのマザコン賛歌」だ。だから「凍てついたナルシシズム」ってな風に捉えることもできる、そのチグハグなバランス感覚には賛否が別れそうだし。ちなみに僕は基本的には『A.I.』否定派なんだけど、浅田彰がつい最近の某トークライブ(9/15at初台ICC)で、「スピルバーグは『バカは泣け、んでわかるやつはキューブリックへの徹底した悪意(批評性?)を読みとれ』というダブル・ストラテジー(二重構造)な映画として、確信犯的に作ってる」なんて感じのことを言ってたっけ……(ゆえに「『A.I.』は、というかスピルバーグ作品はほぼ全部成功作であり、転じてゴダールの『愛の世紀』は大失敗作というかほとんど失敗作とも言える」とか。こういう詭弁を面白がれる齢でよかったと僕は思った)。余談だ。で、巨匠の遺作がどうのなんて負荷がない分、もっとお気楽な観方をした『タイムマシン』の方は、僕はわりと楽しめた。CG=VFX技術、というかハイ・テクノロジーの本懐ってのを見せてもらった感じもあったし。あのヴィジュアルだけでも見る価値あり、これは映画(映像表現メディア)の「可能性」でもあるから、まあ素直にイイ感じじゃんってホメてあげたい!ってのが、観てすぐの感想だった。でも「このSF独自の無常観って、普通の人にわかるかなぁ?」って気分もちょっとあったんだけど……。

ところがUNZIP編集の中村さんが、怒ってたのだ。納得できない、と。「婚約者を救うのをあっさり諦めるなんて!」と要約できそうな、そのプンプンって憤りに虚をつかれたワケだ。考えてみれば、原作小説にも最初の映画化作品(ジョージ・パル版)にも、「タイムマシンを作る動機となった恋人エマの死」ってのは無かった。この二度目の映画化(サイモン・ウェルズ監督版)では、とても大きな動機として、目の前で婚約者を殺されるってショッキングな事件が冒頭に置かれている。ところがガイ・ピアース演じる主人公アレクサンダーは“たった1回、過去に戻っただけ”で「恋人が死ぬ運命は変えられない」と悟り、「文明の進んだ超未来に行ったら、運命を変える方法を教えてもらえるかも?」とか考えて、すぐさま未来へ向かってしまうのである。ちょっと観客のエモーションを置いていく感じは確かにあった。続くストーリーとしては、途中の2030/2037年=「月のリゾート旅行開発とそれが原因の大災厄」ネタが小説と違うくらいで、約80万年後を描く中盤以降はアップデイトされてはいるもののほぼ原作に沿っている感じ、というかH・G・ウェルズの小説では、遠未来で会う女性は森林火災ではぐれてたぶん死んでしまうとか、敵のラスボスみたいなのは出てこないとか、主人公はさらに超未来、地球が滅びる寸前の黄昏にまでタイムトラベルしてから、現代=1894-5年あたりに帰還して、仲間にその顛末を語り、もう一度旅に出て、二度とこの時代には戻ってこなかったって結末だから、全然違うと言えば違うんだけど……。まあ古色蒼然としたアイデアって感じが、たぶん原作のニュアンスと似通っているのだろう。嶮しい峡谷の壁にへばりついた住居で生活してるエロイ族って描写なんかは、原作と全く違うヴィジュアルであるにも関わらず、なんかどこかで観た懐かしさがあったし。共感夢(テレパシー?)能力の設定も原作にはないけど、妙に思わせぶりだったなぁ。ま、ここらへん詳しくは角川文庫ほかで出てる原作短篇集を読んで各自で比べてもらおう。ちなみに岩波文庫版だけが「各々に章題のある16章立て+後日談」って1895年ハイネマン社版の、角川やハヤカワ文庫や創元SF文庫など他の文庫は「章題なし12章立て+結び」って1924年アトランティック社版の翻訳である(あ、児童向けのは未詳。当時の時事ネタをどう訳してるか気になるけど)。章立てが違うだけで内容は一緒のようだけど、それぞれ訳者のクセや注のつけ具合が違うので読み比べるのも面白いかもしれない。いかん、本筋から離れてる。映画冒頭の動機となったシーンの問題だった。

映画版の主人公は、暴漢から救っても今度は事故死してしまった彼女を目撃して「千回過去に戻れば、千通りの死を?」と呟く。つまり「一度試行してダメだったから×n乗しても同じ結果になる」とまず論理的に考え、しかも「彼女がこれ以上違う死に方をするのを見たくない」って気持ちもたぶんあって、さっさと未来へ行ってしまったのだ----ってな風に、僕は考えたんだけど(知的でスマートな処理だとその時は思った)、確かに激しい感情を理性が押さえつけ過ぎてる感じの演出ではある。これは映画の長さ(あるいは撮影効率?)の問題でもあるんだけど、例えばしつこく過去に戻って短いシーンで「さまざまな恋人の死」を繰り返した方が、主人公の哀しみの深さをより表現できる-----のはたぶんわかっていて、それよりは話を先に進めて未来の描写をたっぷりしたかったとか、しかもアレクサンダーが科学者らしい行動をとる男って風に性格づけできるし……とかってのが作り手側の事情だろう。薄々「過去は変えられない」って諦めてた節もあるし。でもこれが心情的に許せない、なんて冷たい男だ!ってなる気持ちは、わからないことはない。こういう観客側の反応って、男女差もあるかもだし、個人個人の恋愛経験やら理想なんてのの違いが出て面白いって思ったのだ。で、「SFの無常観が……」とかなんとか言って、この映画を弁護しかけた僕は、ふとクライマックスの矛盾に気がついて、あれれ?って思っちゃったのである。


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