砂漠の中、リア王のように全てを喪う人々の悲劇『キング・イズ・アライヴ』来日記者会見レポート


ラース・フォン・トリアー提唱の挑発的“純潔の誓い”映画
“ドグマ”シリーズの新作『キング・イズ・アライヴ』登場!

『キング・イズ・アライヴ』クリスチャン・レヴリング監督来日記者会見
DATA:11/1(水)16:00-17:00 bunkamura B1東京国際映画祭プレスルームにて
出席者:クリスチャン・レヴリング監督、ジャネット・マクティア、ヴィベケ・ウィンデロフ(プロデューサー)
テキスト:梶浦秀麿

●『キング・イズ・アライヴ』監督来日記者会見レポート

 2000年11月1日(水)16時より、渋谷・東急bunkamura B1プレスルームにて、『キング・イズ・アライヴ』の脚本・監督クリスチャン・レヴリングの来日記者会見が行われた。監督と同席したのは、劇中で夫に嫌気がさして黒人運転手を誘惑するリズを熱演したジャネット・マクティア、そしてプロデューサーのヴィベケ・ウィンデロフだ。女傑っぽいプロデューサーがわざわざ出てくるのは、ちょっとヘンな感じだし、映画自体が群像劇なので、女優が一人だけ登場するのもどうもピンとこないんだけど、いかつい風貌のクリスチャン・レヴリング監督の語る内容自体は、なかなか濃くてよかったのではないだろうか。いかにも映画オタクっぽいルックスというと起こられるかもしんないけど。彼の控えめな解説は、映画を観る前や観た後での読解のヒントになるはず。ちなみにこの東京国際映画祭では、コーディリアを演じることになる蓮っ葉な金髪ヤンキー娘ジーナ役のジェニファー・ジェースン・リー(他の出演作は『イグジステンズ』『シークレット/嵐の夜に』『ショート・カッツ』など)が、なんと主演女優賞を受賞! 彼女をヒロインとした悲劇として「観る」のが一番腑に落ちやすいってことかもしれないなぁ。------というわけで、例のごとく会見の模様をほぼノーカットで採録する。適当に省略して、例えば「ギリシャ悲劇の“ホールス”」とかやってる他の映画サイトと読み比べると、ニュアンスの違いが面白いかも(笑)。ニーチェ読みとか演劇好きなら“ギリシャ悲劇のコロス(舞唱隊)”というのは基本語彙だろう。ああインテリの映画ってこれだから嫌いだ、と映画狂(シネフィル)は嘆くべきかもね。

■クリスチャン・レヴリング監督:「 今日はお集まりいただきましてありがとうございます。 皆さんに私の映画を気に入っていただけたら大変嬉しく思います」

●ジャネット・マクティア(リズ-ゴネリル役):「こんにちわ……もう少し何か言った方がいいんでしょうか?」(笑)

▲ヴィベケ・ウィンデロフ(プロデューサー):「今日は皆さま、このようなに大勢お集まりいただき、ありがとうございます。プロデューサーをしておりますヴィベケ・ウィンデロフです。このような形で東京に来れるまして、また東京国際映画祭のコンペティション部門に出品できて、大変嬉しく思っています。皆さま既にお聞き及びかもしれませんけれども、本作はカンヌ映画祭の方でも大成功を収めております」

司会:みなさんから、作品へのメッセージをお願いします。
■クリスチャン・レヴリング監督:「私の本作品でのメッセージは、“サバイバル”=“生き残る”ということなんです。肉体的に生き残るというよ りも、むしろ精神的な生き残り、というのがメッセージになっています。特に“言葉”の大切さ、私達が日頃忘れがちな“言葉の大切さ”を訴えたいと思いました」
●ジャネット・マクティア:(モゴモゴする。助け船のようにプロデューサーが話す)
▲ヴィベケ・ウィンデロフ:「プロデューサーとして一言いわせてください。本作に関しては、もともとアイデアは監督のものですので、本作品のメッセージというのは『監督からの言葉』になろうかと思います。私、プロデューサーとしましては、そうした監督のアイデア、メッセージを映画として実現するためのツールを提供する、背後から作品をサポートするというのがプロデューサーの役目です。やはり監督がそういったメッセージあるいはアイデアを持ってきて、プロデューサーがそれを支援する形で、それを実現に運ぶための可能性を検討し、実現するのが私の役割で、そしてそれができた段階で女優さんや男優さんやスタッフが入ってきて、監督と一緒になって作品を創り上げていくことになります。というわけで、プロデューサー(や女優)からのメッセージと言われてちょっともたついてしまったんですが、メッセージを語るのに相応しいのは監督だけです、とプロデューサーとしては申し上げたかったんです」

Q:撮影はどのくらいかかったのですか?(英語なのでちょっと不明)


●ジャネット・マクティア:「撮影は6週間におよびました。 見た目ほど凄くハードだったわけではありません。6週間に及ぶ撮影の中で、風がものすごく強かったというのは大変な要素だったということはありましたけれど、2つの理由でとても楽しい撮影期間となりました。私にとっては冒険に満ちあふれた素晴らしい撮影の体験となったのですが、2つの理由というのは、まず、脚本が非常にしっかりしていて、とても魅力的だったということ。そして2つめは、この脚本を書いたクリスチャン、監督はもちろんのこと、素晴らしい人々と一緒に仕事ができたこと。大変楽しみながら撮影を行うことができました。ただシーンの中には非常に強烈なシーンもありましたので、そういうところは少し難しいところがありましたが」

Q:ジャネットさんは映画の中より、とても美しいのでびっくりしました。撮影が大変楽しかったそうですが、この映画の中では、ロマーヌ・ボーランジェさんが日本では比較的よく知られている有名な女優なのですが、彼女との共演した印象はどうでしたか?

●ジャネット・マクティア:「(最初の質問に)ありがとうございます。彼女と二人だけのシーンというのは、最初のシーン以外ではほとんどなかったんです。その最初のシーンでは、乗客がみんなパニックを起こしてしまっているような状況のところだったんですが、私はフランス語が話せませんし、彼女もあまり英語を話せませんから、二人の間でのコネクションを作ろうと思うと非常に努力しなければならないという形だったんです。彼女は非常に素晴らしい目、瞳をしていて、非常に強烈なまなざしを持っていました。もちろん顔立ちはとても可愛らしい綺麗な顔ですし、髪の毛も素晴らしいのですが、やはり彼女の一番印象的なところはその瞳、まなざしであると思います。私も言語的な障壁はありますから、彼女の瞳を通して、まなざしで彼女とコネクションを作ろうとしました。実際彼女の頭の中で考えていることがそのまま瞳に現れて伝わってきているのかは分かりません、もしくは目で訴えていることと頭の中は違うのかもしれませんけれども、彼女の瞳を通して彼女という人と一緒になろうとすること。これが私にとっても非常に興味深い経験でした」

Q:監督に質問します。夜のシーンはどのくらい撮影が難しかったのですか? やはり「ドグマ」ですので照明を使うことはゆるされないってことなんですか?

■クリスチャン・レヴリング監督:「実は夜のシーンなんですが、皆さんが想像されるほどは難しくはありませんでした。それには2つ理由があります。まず1つは、選んだロケーションにおいては、ケロシン・ライトを使うことができた(廃屋の電球をそのまま利用できた------プレス資料より)ということがまずあります。そして、その光を使いましてデジタルビデオで撮影しましたので、それほど大量の光がなくても撮影できた、というのがその理由です。また、実際にこのような形での撮影をすることによって、非常にリアルな形で光を捉えて、それを映像に盛り込むことが出来たと思うので、私にとっても非常に刺激的な経験となりました」

Q:監督さんにお訊きしたいんですが。砂漠という過酷な状況で、一人一人が極限状態に追い込まれるわけですよね。そういう状態の中で人間性が赤裸々になるわけですけれども、そういう場面をキチッとおさえられたのか、思い通りに取れたのかどうか? それから本当にそういう過酷な砂漠に直接行かれて、その撮影現場においても過酷だったのか? お教え下さい。


■クリスチャン・レヴリング監督:「まず最初のご質問に対してですが、この中でそのご質問に答えられないのが、唯一私ではないかと思っております。それぞれのキャラクターの一番赤裸々な部分、“魂”の赤裸々な部分、これをうまく私が映像を通して表現できなかったとしたならば、私はそういったことをやろうとしたけれども失敗した、と言わざるを得ません。ただ実際に私がこの映画の中で表現したかったアイデアというのは正にその通りで、各キャラクターの赤裸々な“魂”というものを取り込んで、それを映像にしたいと思ったのです。ですからもちろん『できました!』と口で言うのは簡単なんですが、ちょっと個人的にはお答えすることはできません。で、2つ目のご質問なんですけれども、これは“映画”です。“映画”というのは“嘘”、“虚構”の世界です。で、“ドグマ”というのは、こういった虚構の世界を描くには非常に適した形なんですね。すなわち虚構が、まるで本当のように、信じられるものであるように見せてくれるのが、この“ドグマ”というスタイルだと思います。実際の撮影の現場なんですけれども、たぶん皆さんが想像なさるよりは、もう少し撮影しやすい所であったという風に言っていいと思います。もちろんいろいろな候補地がありますから、もっとアクセスしにくい場所ですとか、もっと過酷な場所というのもいくらでもあった訳ですけれども、やはりそういった所を選ぶよりも、いかにも、こういった所が本当にあって、皆さんが本当にこういう所がありそうだ、と信じてもらえるような所を選んだのです。ということであのロケーションに落ち着いたんですが、見た目ほど撮影そのものはハードではありませんでした。例えば気温のことをちょっとお話ししますと、あれはヨーロッパの夏でしたので、撮影がありましたのはアフリカでしたので、ちょうど冬季にあたります。ですので気温としてはだいたい18〜25度くらいの状況で行いました」

Q:僕は“ドグマ”シリーズのファンなんですが、その意義を踏まえた上で敢えて訊きますが、もし監督がドグマのルールを変える権利があるならば、もう一つ加えたい、もしくはこのルールはできれば削除したいと思うルールなどがありますか? つまりこの“ドグマ”というルールに監督としては全面的に賛同しているのか、何か思うところがあるのかを伺いたいんです。もう一つ、先程女優のジャネットさんに、「映画より実物の方がむしろ美しい」という質問者の言葉がありましたが、ということはリアルを求めているにしても映画に映った彼女はリアルではなくって、実物よりも醜く(笑)映ってしまったわけです。それについてもコメントを。

■クリスチャン・レヴリング監督:「たくさん質問が出て、全部覚えるのが大変ですね(笑)。いろいろドグマのルールに関しては誤解されがちだと思うんです。やはり“ドグマ”のルールというのは、監督の立場からしますと、非常に難しいルールばかりなんです。それを全部きちんと守ろうとすると、非常に監督として“極限状態”に追い込まれると言ってもいいかも知れません。つまり本当は『あれもやりたい、これもやりたい』というのがあるんですけど、それらを全部一切やってはいけない、という禁断症状みたいな状態になってしまうんですね、映画を作りながら。ただ、そういった極限状態に置かれた中での映画作り、それを通して、非常に喜びに満ちた素晴らしいものを作り出すことが、結果的にできるんです。やはり実際に撮影に入ってしまいますと、もう『あ、このルールはいい』とか『このルールはやだな』とか、そんな風に思ってる余裕というのは一切ありません。ただ、私はこの作品のためには、ひとつだけルールを付け足しました。それは“シーンの1番から最後のラスト・シーンまで、時系列をそのまま忠実に守って、シーンの1番から2番、3番……という形で最後まで順に撮っていく”というルールを採用しました。 この作品にはこのルールが適していると感じたからです。実際に撮影の部分が終わりまして、編集段階になりますと、シーンによっては 同じシーンを複数のカメラで撮影しているのですが、その中で、やはりリアルな映像、そのままの正確な映像、しかもできるだけ大きなエモーションを与えるような映像にしたいというのがありましたので、できるだけ同じテイクのものを採用しながら編集していきました。先程、ジャネットについてのコメントがありましたけれども、やはり彼女は非常に忠実に割り当てられたキャラクターを演じてくれていたと思います。この役柄の中の彼女というのは、人生に傷つき、非常にダメージを負った状態で生活してきた、という役柄でした。で、彼女とも話し合ったのですが、そういった中で『このキャラクターは、あまり美しい人ではいけない』ということでお互い意見が一致しました。そういった場合、役者さんの中には、敢えて、そんな自分が美しくは見えないような役はやりたがらないっていう人もたくさんいる中、彼女はそういうことをやる能力もありますし、また敢えてそういうこともやろうという気持ちを持っている役者であると思いました。すなわち二人とも『できるだけリアルにやろう』と意見が一致して、彼女もそうやってくれましたので、非常に優れた役者としての資質を持っていると思います」

Q:監督にお伺いします。やはり芸術というのは、宗教と同じくらい大切なものなんでしょうか? また御自身がこの映画の状況のように、砂漠に放り出されてしまったとしたら、監督にとって何が一番大切ですか? そして監督なら『リア王』の誰を演じられるのでしょうか?

■クリスチャン・レヴリング監督:「これは非常に主観的な答えを必要とするような、ご質問であるかと思います。やはり文化というのはそれぞれ歴史がありますので、ある文化は宗教を非常に重視していますし、今はそれほど重視しなくなった文化もあります。私自身はデンマーク出身ですので、宗教というのは、どちらかというと過去のもの、過去においては重きを置かれていましたが、現在においてはそれほど重視されていない社会です。もちろん魂の中にその一部は片鱗として残っているわけなんですけれども。例えばデンマークの人に『あなたは神を信じますか?』と尋ねたら、おそらく7%の人しかイエスと言わないと思います。それに対してアメリカですと、おそらく90%くらいの人がイエスと言うのではないでしょうか? 私個人的には、宗教色というのはこの映画にあまり取り込もうとは思っていません。『芸術の方がもっと大切なのか』と言われそうですが、私はこの映画の中で宗教よりもむしろ芸術の大切さというものを盛り込んだつもりです。特に現代のような大量消費社会においては、物をじっくり考えるというようなスペースですとか、そういう機会というのを、人々が忘れがちだと思うんですね。今回、作品の中では、『リア王』が上演されていますけれども、その経験を通して、遭難したバスの乗客は皆、いろいろなこと考えるわけですね。 そういった作品の中のキャラクターが、『リア王』を通して、普段忘れがちな、じっくりと物を考えるという経験をした、ということになります。で、二つ目のご質問ですが、私だったら砂漠の中で『リア王』の誰を演じるか、というより私が極限状況に置かれたとしたら、最も大切なのは『希望』なのか『水』なのかというご質問がありました。それに対しての解答なんですが、ヨーロッパでは大戦中に強制収容所がありました。そこで生き残ったユダヤ人の方々の証言を読んでみますと、彼らは何らかの言葉、発話される言葉の大切さを認識して、実行していた人だと思うのです。朝であれば『おはようございます』、昼だと『こんにちわ』といった言葉の大切さ、これを実践していくこと、強制収容所という状況にありながら、人間としての尊厳を維持していた人、そういったことができた人が、生き残ることが出来たのではないか、とそういうふうに考えています。ですから、生き残るということを考えた時に、もちろん水は大切です。でも、それと同じくらい、やはり文化も大事だと思います。文化、という言葉を使いますと、ちょっと概念として幅が広すぎるかもしれません。そうした場合には、物語、あるいは神話といったものに置き換えてお考え下さい。そういったものがサヴァイバル=生き残りには非常に重要な要素であり、そういったものがあるから、正気を失わずに済むんだ、という風に思います」

Q:人類学では、シェイクスピアをアフリカのどこかの部族に聞かせて、彼らは全然文化的バックグラウンドが違うので、普通我々が泣くようなシーンで逆に笑ったりする、反応が全然違うというようなカルチャーショックみたいな調査があるようなんですが、そういう研究報告も踏まえてらっしゃるのでしょうか? それとも全くの偶然なんでしょうか? 今回の作中の、ある一人のアフリカ人の視点と西洋人の視点のギャップがあるというような描写というのは。


■クリスチャン・レヴリング監督:「そのような研究があるというのは事前に知ってはいましたが、特にそういった研究をこの映画に活用したということはありません。この映画の中でやりたかったことは、いろいろなレベル、複数の異なったレベルでのストーリーテリング、物語の語り部によって、物語を進行させていくということをやりたかったんですね。みなさんもご存じかもしれませんが、今でもアフリカの街などに行きますと、街の中に広場があって、そこでに何人かのストーリーテラー、語り部の人達がいるんです。みんな同じ話をしていたりするんですけれども、やはりそれぞれ出来不出来がありますから、非常にたくさんの人が聞いている語り部もいますし、ほんのわずかな人しか聞いてくれないような語り部もいます。話す内容は全く同じなんですけれども。そういう語り部文化というのがアフリカにはあります。今回の映画の中のカナナという人なんですが、このキャラクターがアフリカの語り部の視点を持って、この映画に入っています。ただこのカナナは、乗客達が話している言葉は理解していませんし、『演劇』という概念もありません。ですから何をやっているのかは理解していないのです。ですからおそらくカカナは乗客たちがやっているのを観て、何か儀式をやっているのかな、という風な認識の仕方だと思われます。ただカナナの視点というのは、いわゆるギリシャ悲劇の中の“コロス”の視点であるということは言っていいと思います。すなわちいろいろなことを見ている、何が起こっているのかを全て見ている人物、物事の証人であるという視点に立っています。そういった形で、この映画全体の語り部の役割を果たしているのです。私はもともと、この作品を、そういったアフリカの人達向けに作ったわけではありません。私と文化的に同じような背景を持っている人々に楽しんでもらおうと思って作ったものです。ですからもちろんアフリカの人達がシェイクスピアを上演したらどういう風になるのか、というような映画を作る可能性はあるとは思うんですけれども、ちょっと私には難しすぎるテーマだと思います」

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