[千と千尋の神隠し]
2001年7月20日より日比谷スカラ座ほか全国東宝洋画系にて公開

原作・脚本・監督:宮崎駿/製作:スタジオジブリ/音楽:久石譲/声の出演:柊瑠美(千尋)、入野自由(ハク)、夏木マリ(湯婆婆)、菅原文太(釜爺)、内藤剛志(お父さん)、沢口靖子(お母さん)、玉井夕海(リン)、神木隆之介(坊)ほか(2001年/日本/2時間5分/配給:東宝)
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「ちひろ 元気でね また会おう 理紗」というカード付きの花束を握りしめ、萩野千尋は父の運転する車の後部座席でブーたれていた。広い家に引っ越せると言っても、友達と別れるのは嫌だ。母も「やっぱり田舎ね」とポツリと呟く。遠くに見える小高い山の上の新興住宅地を目指し、上機嫌な父は「近道か?」とヘンな山道に迷い込んでしまう。行き止まりには赤い壁の建物と、ポッカリ開いたトンネル。どうやら失敗したテーマパークの残骸らしい。探検気分で侵入する両親にイヤな予感がしつつ、ついてゆく千尋。何といってもまだ10歳の女の子だ。トンネルを抜けるとギリシャ風の柱廊の部屋、その外には草原が広がっていた。

と、小川の向こうに不思議な街がある。「呆れた、これ全部食べ物屋よ」と絶句する母を尻目に、父はいい匂いのする方へ。なんとも美味そうな不思議な食べ物がカウンターに並んでいる。両親は店員が見当たらないので勝手に食べ始めた------「後で支払えばいいさ」。食堂街の向こうの階段の上に灯籠がある。千尋は一人でそこまで登って、その向こうの巨大な建物を見つける。「油屋」------実はそこは、八百万の神や妖怪が疲れを癒しにくる湯屋、観光温泉旅館だったのだ。突然ハクという少年が現れて「人間が入り込んではいけない、ここでは働かない人間は消えるか動物になる」と千尋に忠告するが、時すでに遅く、両親は豚に変化し、帰り道の草原も海になってしまっていた。

ハクは何故か千尋を識っていて、彼女に湯婆婆(ゆばーば)の湯屋での身の処し方を教える。「働かざる者食うべからず」がモットーの魔女である湯婆婆は、ハクの助言に従って「働かせて下さい」としつこく言う千尋を雇わないわけにはいかない。彼女の名前を奪って「千」と名付け、下働きにこき使うことにする。先輩のリンは、「ハクは湯婆婆の手先だ」とけなすのだが、陰で助けてくれるハクが悪い人だとは思えない。だが名前を奪われた者は、次第に自分の名を忘れ、本当の自分もなくして魔女の手先になってしまうらしい。両親を助けるために、次々に起こる不思議な出来事にもめげず、けなげに懸命に働く千=千尋。いつか自分の名を取り戻し、ハクの本当の姿を思い出し、そして元の世界に帰ることができるのだろうか……。

あの『もののけ姫』で空前のヒットを飛ばした宮崎駿監督の待望の最新作は、神々が湯治に訪れる仙境=湯屋に迷い込んで働くことになった現代っ子、千尋=千の成長を描くモダン・ファンタジーだ。自作をはじめ、古今の神話・民話から漫画、現代児童文学などの膨大な引用を散りばめて、説教臭さも敢えて練りこんで展開する娯楽漫画映画として、観逃すわけにはいかない作品に仕上がっている。さすが「世界のミヤザキ」である。

まず柏葉幸子『霧のむこうのふしぎな町』(講談社文庫)というモダン・ファンタジーを思い出した。ブスなヒロイン、田舎の森の奥の不思議な町、ユニークで独特なキャラクター達、不機嫌な女主人と親切な下っ端、「働かざる者、食うべからず」ネタ、ハイカラな和洋折衷趣味(特に銭婆!)、淡い恋、再訪の予感などなど、幾つか共通点があるので、基本構造の元ネタはこれだろうと思う。で、これを更にスケールアップして、ゴタゴタと「今必要なモノと不要だけど趣味的に入れたいモノ」をゴチャッと詰め込んだのが『千と千尋』なのだろう。もちろん自作からの「手塚治虫のスターシステム」式応用も膨大だ。ススワタリはもちろん『となりのトトロ』のマックロクロスケ、湯婆婆や釜爺は『天空の城ラピュタ』のドーラ(『魔女の宅急便』にも柔らかくなって出演)と機関士ホラ・モトロじっちゃん、クサレガミは『風の谷のナウシカ』の巨神兵、カオナシは『もののけ姫』のシシ神、白竜も顔はモロら狼のものだ。千尋の両親も見た顔だし。『パンダ・コパンダ』的一軒家もあったか。つい笑ってしまった「エンガチョごっこ」も『ルパン3世』にそんなネタがあったような……。あ、『耳をすませば』で引用されてた井上直久の<イバラード>世界の感覚も持ち込まれてるみたい。そうそう宮崎アニメ十八番の「飛行」シーンももちろんあるゾ。ただ『カリオストロの城』っぽい階段走り降りや、『コナン』っぽい壁の配管伝いなどは、元ネタより抑え気味なのが不完全燃焼感もあったりするのがツライところ。ついでに前作『もののけ姫』から引きずっている“壊れた感じ(分裂気味)の物語構造”までもが、何とも微笑ましく思えるのはファンの欲目だろうか------いかん、これじゃあただの宮崎マニアだよな……。さらにつげ義春の『ねじ式』めいた街角や大友克洋『AKIRA』の子供部屋、庵野『エヴァ』の哲学的電車内シーンの引用、『カレカノ』『フリクリ』のガイナックス系デカ汗・デカ涙=涙の記号的デフォルメの再解釈まである(ここは思わずもらい泣き笑い必至)。もちろん日本神話や世界の民話、能や魔法物語や『不思議の国のアリス』や『オズの魔法使い』からの設定引用も……なんて言い出すと、もはやどれが元型だかわからないのでもうやめよう(聖書の「ガダラの豚」まで絡めてしまいそうだし……)。ただ「ニギハヤミコハクヌシ」にはビックラこいた。日本神話の「消された大王」、饒速日(ニギハヤヒ)ってのは一部の日本古代史愛好家にとって特別の響きがある名前なんだけど、『マトリックス』のヴァーチャル道場の掛け軸にチラっと登場したと思ったら、なんと本作にも! どれくらい意味を持たせてるのかは不明だけど、なんか嬉しかったりした。……と、マニアックな愉しみも存分にある、それこそメガロマニアックな娯楽作なのだ。

問題もいくつかあるにはある。「労働至上主義」な湯屋の設定(新人イジメの正当化や旧態依然とした資本家=労働者観)は時に不快だが(ダメ連や大金持ち、いやそれよりリストラされたお父さんが観ると怒るかもね)、ジジイなりの潔い本音だろうから、まあヨシとしよう。ブータレてた千尋の、あまりに鮮やかな環境への適応も不自然ではある(日本軍的効率&精神主義を導入した戦後の企業労働力確保時の洗脳技術に準じた描写だと思う。バルバロイよりアテネ、アテネよりスパルタってワケかな?)が、無理矢理にでも成長させないと話が始まらないし終わらないので、これも仕方ない。食欲や金銭欲といった「罪深き欲望」というモチーフへのこだわりも、全否定するワケにもいかず、さりとて肯定もし難い地点で踏みとどまり、適度にデフォルメを効かせた上で、主人公の資格として千のみが「清い」ってのも考えさせられるところだ。また表現上でも、花壇や海上や空撮部分でCGっぽさが垣間見えた時に、いちいちチッと舌打ちする人が横に座ってたので(笑)、「確かに宮崎アニメの感触ではないなぁ」と思いもした。全体に「ロリコン親父のアリバイ作り」めいた隠し味も感じられるし、宣伝で監督自身が語る「オジサン論(父親ではなくオジサンとして作品を作るっていう、岡田斗司夫『フロン』みたいな理屈)」はその逃げ口上にも聞こえる。でも、でも、だ。そうした欠陥を抱えつつも、何かこう、身震いするような原初的な喜び(悦びであり歓びでもある)を、動く絵として鮮やかに表現できる希有な才能には、やはり無条件に惹きつけられてしまうのだ。この「宮崎アニメをもっと観たい」という「欲望」もまた罪深いと知りつつ(『トトロ』のビデオだけを子供に見せて、タイトル元ネタのトロールの出てくる『ムーミン』シリーズを朗読してあげもしない親にはなりたくないと自戒しつつ)、僕はまた何度もこの映画を観てしまうのだろう……。

Text:梶浦秀麿

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