[FINAL FANTASY]

2001年9月15日より全国東宝洋画系にて公開

原作・監督・製作:坂口博信/製作:会田純、クリス・リー/脚本:アル・ライナー/音楽:エリオット・ゴールデンサル/声の出演:ミン・ナ、アレック・ボールドウィン、スティーブ・ブシェミ、ビング・レイムズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ウッズほか(2001年/アメリカ/1時間46分/配給:ギャガ・ヒューマックス共同配給)

∵公式サイト


2065年、人類は滅亡の危機に瀕していた。隕石とともに飛来した、地球外生命体“ファントム”が地上を蹂躙。大多数の都市が破壊され、人々は限られたエリアに閉じこもって生き延びていた。

軍部はファントムを一掃すべく、強大な武力の行使を主張する。しかし、科学者“シド”と彼の教え子“アキ”は、別の道を模索していた。その鍵となるのが“精神体”の存在だ。“精神体”を収集すべく、各地を探索するアキ。実は彼女は、繰り返し不思議な夢を見ていた。夢に現れる謎の惑星。そこで闘うファントムたちの姿。このビジョンは彼女に何を伝えようというのか…。

探索の途中、アキはかつての恋人“グレイ”と再会する。グレイは対ファントム部隊“ディープ・アイズ”の隊長を務めていた。軍上層部からアキの監視を命じられるグレイ。だが彼はアキの身を案じ、彼女を守ることを決意する。

渦巻く陰謀と、迫りくる終局。やがてアキは自らの使命を知る。地球の運命は今、彼女に託された−−


映画『FINAL FANTASY』は、ゲームメーカーのスクエアが3年以上の歳月をかけたビッグ・プロジェクト。タイトルは同社の看板ゲームと同じだが、設定は完全なオリジナルである(※1)

本作最大の特徴は、全編フルCGで描かれた映像であろう。クリエイターとは、自己の携わる表現に深い関心をもつもの。CG表現でゲーム業界をリードするスクエアにとって、本作でのトライアルは、ある意味必然と言える。

そのCGの完成度は、ゲーム・映画の枠を超えて、現時点での最高峰に達している。そもそも3DCGでもっとも難しいのは、人物の表現である。人体の微妙な起伏、肌の表面、髪の動き…。3DCGにとって「人物」とは、CGの「滑らかさ」とは対極の、雑多な要素の集合だ。これをデジタルで再現するには、高度な技術と膨大な労力を注がねばならない。だから、すべての登場人物をリアルタッチでCG化した時点で、壮挙と呼んでいい(※2)

とはいえ、だからこそ本作は、現在のCGの限界を示している。背景や機械類の描写は完璧に近い。しかし、実際の人物が見せる、肌の透明感や柔軟な動き…。これら人物の「自然さ」は、再現し尽くされたとは言いがたい。CGがリアリティ重視なだけに、実物との差が意識されるのだ。

もっとも、これは悲嘆すべきではなく、作り手にとって刺激的なことであるはずだ。例えば今後、より多くの労力と技術をつぎこんで、人物の「自然さ」に迫る道がある(その際はCG云々ではなく、コストが問題となるだろう)。または、人物以外をフルCG化し、役者の映像となじませる方向もある。あるいはセル・アニメーションが辿ったように、実際とは違う、独自の「自然さ」を探究する道もある(※3)

…そんなワケで『FINAL FANTASY』は、およそ映像に携わる人にとって、観る価値がある映画だ。コンピュータを道具として、映像はどのような表現に進むのか? 本作を通じて、その未来を幻視してほしい。

Text:吉川まさと

※1:ちなみにゲームの『FINAL FANTASY』自体、新作ごとに設定を一新している。物語は連続せず、世界観がSF風になったり、正統ファンタジー調になったりする。目下、ゲームのシリーズで共通する要素は(1)召喚獣(=プレイヤーが呼び出せる幻獣)の登場(2)時間の概念を持った戦闘シーン(3)“シド”という援助者の存在、である。映画で“シド”が登場するのは、ゲームファンへのサービス!?

※2:3DCGで人物等の動くキャラクターを作る場合、おおざっぱに言って「モデリング」→「モーション」という工程を辿る。モデリングでキャラクターの形状・骨組み・表面を作り、モーションで動きを仕込むワケだ。これらの行程は基本的に手作業で進行する。コンピュータはあくまでデータを演算処理するだけであり、マシンの性能があがっても、それだけ精密なデータを扱えることにしかならない。結局、CGの制作にはマンパワーが必要なのだ…。

※3:例えば、セル・アニメーションで複数の人物が会話するシーン。しゃべる側には当然動きがあるが、聞き手側は絵として静止している。実際の人間と比較すれば「不自然」なはずだが、アニメーションとしては、かえって「自然」な表現として成立している。




Copyright (c) 2001 UNZIP