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1925年、パリ郊外の聖クリストファー少年寄宿学校。二人騎馬戦をしている少年達のシーンから始まる。捨て子だったアベルは、デブの親友にして暴君のネスターに守られ、こき使われている。夜中に食堂に忍び込んで食糧を調達し、ネスターお気に入りの絵本、カナダのヘラジカ猟のくだりを読んであげる日々……。ある日、教師から理不尽な罰を受けたアベルは、そのおかげでネスターも巻き込まれた学校の大火事から逃れたことで、自分が世界に守られていると感じる。
成長したアベル(J・マルコヴィッチ)は自動車修理工になり、趣味の写真で近所の子供達を撮影したり、月イチで買う娼婦に「鬼、魔王、冷たいヤツ」と罵られたりしている。人間関係をうまく構築できないようだ。やがてユダヤ系らしき美少女マルティネに翻弄された挙げ句、覚えのない強姦罪で逮捕されてしまう。時は1939年、フランスはドイツと戦争を始めていた。そのまま前線に送られ、伝書鳩の飼育係となるが、あっさり連隊ごとドイツ軍に捕まり、東北部の収容所送りに。塹壕掘りに明け暮れることになるが、存在感のないアベルは時々こっそり抜けだして凍った川を越え、山小屋で休憩するようになる。その小屋には盲目のトナカイがやってくる。ある日、ナチの将校と小屋で鉢合わせするが、何故か気にいられてお目こぼしされる。そのフォレスター官長(G・ジョン)はトナカイを「オーガ(魔王)……盲目のトナカイ、怪物だ」と彼に呟いてみせるのだった……。 1941年。アベルはフォレスターに車の整備員として雇われ、ナチス・ドイツNo2の地位にあるゲーリング元帥(V・シュペングラー)の狩猟館へ行くことになる。森の奥の巨大な別荘で、雌ライオンをペットにし、宝石を入れたボウルに手を遊ばせる暴君ゲーリング------アベルは死んだ友ネスターを思い出しながら、下働きとして彼に仕える。1943年。大規模な狩猟大会が行われ、大量の死んだ鹿が屋敷前に並べられて、祝祭の宴が催される。だがその夜、戦況の悪化を知らせる手紙が届く。ゲーリングはベルリンに、フォレスターはスターリングラードへ。アベルは近くにそびえるカルテンボーン伯爵(A・M・スタール)の城へと向かう。今は軍に接収され士官学校となったその城には、ヒトラー・ユーゲントとなる洗脳と訓練を受けている幼年兵達が大勢いた。優生学的見地から少年を選別するブレトフェン教授(D・レサー)、狂信的なSS将校ラオファイゼン(ハイノ・フェルク)らのもと、乳母役のネッタ(M・ゲーゼブレヒト)と共に舎監的な雑務をこなすアベルは、子供達と一緒にいられることが幸せだった……。 1944年。少年達に慕われる性格を買われて、アベルは近隣の村へ少年をスカウトする役目も与えられる。三匹のドーベルマンを連れ、フォレスターの馬に乗って、貧しい農家の子からサイクリングの少年グループまで勧誘してみせるアベル。村人達には“人さらい鬼”と恐れられもしたが、彼は子供達を救う使命に燃えていた。だが、ナチスに心酔してゆく彼らを見、また劣性民族と見なされた少年の訓練中の悲惨な死を見て、徐々に心が揺らいでゆく。戦況は更に悪化し、夜をついて難民達が通り過ぎる。アベルはそこで助けたユダヤ人少年エフライムを城に匿うのだが、すぐにソ連共産軍の戦車部隊が侵攻してきた。徹底抗戦を叫びながら狂気を帯びるSS将校、籠城を余儀なくされる少年兵達、逃げる優生学者……混乱の中、「子供達を守りたい」という想いでアベルは……。 自分が仕えるに足るもの(真理? 偉大な人物? 信条?)を探し続けることになる、純朴で内向的な男の物語------って言ってしまうと語弊があるかもなぁ……。第二次大戦下のフランス・ドイツを舞台にして、複雑な寓意を散りばめて展開する映画なので、“純文学”を読むように、じっくり考えないと全体像がまとならない。徴[しるし]として主人公アベル・ティフォージュの前に現れるのは、絵本の中のカナダのヘラジカ、盲目の老トナカイといった、極寒の地に生きる角のある生き物。それらは「狩られるもの」であり、アベル自身が狩る「美しい少年達」にもつながる。狩るもの=暴君は、幼少時の親友ネスターでありナチのゲーリング将軍でもある。滅びゆく貴族を体現するカルテンボーン伯爵は狩るものか狩られるものか? ユダヤ人虐殺を推進したイカサマな優生学を唱える科学者は?……と、「狩るもの」=仕えるに足る人物(ないし信条)を探してアベルは彷徨う。一方で彼は無類の子供好きである。「子供達を好きだから。守りたい。大人達から」と、サリンジャー『ライ麦畑』のホールデンのように呟くアベルは、「幼な子イエス」がナチスに劣性民族とされるユダヤ人だとも知っている……。はたまた原作小説の仏題『オーヌの王』は、ゲーテも詩に詠んだゲルマン神話の魔王なんだけど、この映画の「オーガ」はヨーロッパの民話や童話に出てくる食人鬼だ。こうして象徴同士が複雑にぶつかり合いながら、それらが意味するものを一つにまとめようとすると、曖昧な印象にぼやけてしまうのだ。いや、印象的なシーンは多いのだ。自動車工時代の少年少女のスナップ撮影の数々やコケティッシュな美少女とのエピソード、ナチスの幼年兵訓練校での少年達の躍動美を見せる体操シーン、また夜の熱気あふれる不気味に崇高な「ハイル・ヒットラー」式マスゲーム……あるいはクライマックスの苛烈な戦闘シーンも凄い。静謐な冬の森をバックにした巨大なトナカイの存在感、大々的な鹿狩りのシーン、ああ収容所での伝書鳩の小さなエピソードも苦かったなぁ……。そんな風に、物語を構成する逸話自体は具体的でリアルなのに、全体像は妙に散漫な感じなのだ。これは長大な原作のダイジェストだからかもしれないけれど……。 一応、映画を読み解くキイとなる「クリストフォロス伝説」を紹介しておこう。偉い王を探し求め、その王が恐れる悪魔に仕え、またその悪魔が怯えるキリストに仕えようとして、旅を続けた逞しい男の話だ。キリスト教信者の老人に「あの危険な河の渡し守をやり続ければ主に会える」と教えられ、河の畔に小屋を建てて、旅人を背負って渡す日々が続く。ある日。幼い少年を背負ったところ、突然川の水が増水し、子供はこ泣き爺のようにずっしりと重くなる。耐え難い重みに耐えて渡りきった所で、少年は自分がイエスであると名乗り、「お前は世界を背負ったのだ」と教えられる……というものだ。やがて旅の守護聖人として、クリストフォロス(キリストを背負う者)の伝説は、広くヨーロッパで知られるようになった。この映画は、アベルが世界を背負うまでの話でもあるのだった……。さて、映画を観て何かを感じた人は、上下巻で長いけれど、みすず書房刊の原作に挑戦してみよう(昔の二見書房版を古本屋で探すのもいい)。 原作は『フライデーあるいは太平洋の冥界』(岩波現代選書→現在はジル・ドゥルーズの序文付きの新装版が岩波書店より出てるようだ)、『メテオール(気象)』(国書刊行会-文学の冒険シリーズ)などで知られるフランスの作家ミシェル・トゥルニエの1970年の作品。「新寓話派」と呼ばれたりもするトゥルニエの第二長編で、幻想小説というか哲学小説というか、不思議な肌触りの現代文学だ。その現実感がないのにリアルな悪夢のような感触がある思索的な原作を、実にカッチリと映像化したのが、ドイツの巨匠フォルカー・シュレンドルフ監督。『ブリキの太鼓』『スワンの恋』『侍女の物語』などなど、文学作品の重厚な映画化には定評のある映画監督である。音楽はマイケル・ナイマン。主演はご存じ名優ジョン・マルコヴィッチだ。あ、ナチに城を接収される貴族カルテンボーン伯爵をアーミン・ミューラー・スタール(『マイセン幻影』『シャイン』『ピースメーカー』『X-ファイル/ザ・ムービー』『ミッション・トゥ・マーズ』など)が演じてたり、その城で乳母のような立場にあるネッタを、あの『バグダッド・カフェ』のマリアンネ・ゼーゲブレヒトが演じてるので、ちょっと気にして観てみると面白いかも。 Text : 梶浦秀麿 Copyright (c) 2001 UNZIP |