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「名前ってなに? バラと呼んでいる花を 別の名前にしてみても美しい香りはそのまま」----『ロミオとジュリエット』シェクスピア(小田島雄志訳)------金城一紀『GO』P3より
「単一、差別、同化、排斥、純血、混血、異質、均質、雑種、大和民族、異民族、血統、蝦夷、熊襲、琉球、国体、国粋、攘夷、純潔、皇国史観、八紘一宇、万世一系、大東亜共栄圏、富国強兵、一視同仁、日鮮一体、日鮮同祖、日韓併合、皇民化、臣民、総督府、創氏改名、領有、帝国、植民、統合、侵略、征服、傀儡、服従、抑圧、支配、隷属、隔絶、隔離、雑婚、雑居、混合、先住、渡来、差異、偏見、異同、増殖、繁殖、異人種、劣等人種、優等人種、血族、膨張、領土、統治、搾取、略奪、愛国、優生学、同胞、階層、異族、融合、和合、野合、排外、排他、排除、殺戮、殲滅……」------金城一紀『GO』P93より 「なんじゃそりゃ」------映画『GO』冒頭で、以上の引用の後で吐かれた杉原の台詞。 他校とのバスケの試合中。マークしてくる奴に何か酷いことを言われたらしい杉原(窪塚洋介)は、ある種の意味群をなす単語を思い浮かべてゆく……もはや試合どころではない。敵チームはそのまま殲滅すべき何かの象徴だ。ドロップキックを炸裂させる。何度も。まわり全部が向かってくる。自分以外の全てに、飛び蹴りをかましてやる!って感じ。----「これは僕の恋愛に関する物語だ」と杉原は語る。 その3年前の中学時代。地下鉄のホームから飛び降りて、やってくる電車に負けないスピードで走り抜ける肝試し、通称「スーパー・グレート・チキン・レース」。杉原は全速力でダッシュする。タイトル「G○」を体現するかのように……。見事、朝鮮民族学校史上3人目の成功者となったが、すぐに追ってくる駅員をまくために、2人目の成功者(ちなみに1人目はヤクザの鉄砲玉になってもう死んでる)であるタワケ先輩(山本太郎)と、同級の元秀[ウォンス](新井浩文)と共に、原チャリを奪って3人乗りで逃走する。が、パトカー数台に追いつめられて御用となった。駿足のタワケ先輩の逃げ足はさすがに早く、残る2人は警察に。呼び出された杉原の父・秀吉(山崎努)は、顔を見るなりドカンと一発、続けて腰の入った連打を食らわせて床に這わせる。血塗れの奥歯を吐き出す杉原を見て、警官の方がアタフタしてる。解放されて「どうだ、今回も家裁にいかなくて済んだろ」と父。「ありがとは?」と母・道子(大竹しのぶ)。ボソッと「いつか殺してやる」と杉原。聞こえたらしくて「あ、ウソウソ」も間に合わず、もう一発ボディをくらう。----「もう一度言う、これは僕の恋愛に関する物語だ」とか。元ボクサー、それも日本ランキング7位だったという秀吉はその夜、TVの観光番組のハワイ特集をぼーっと観ている。母はシャブシャブを杉原の皿に載せる。「自分でシャブシャブさせろよ」と文句を言う杉原を尻目に、「主義なんて流行らないのよ、寒いと主義も凍っちゃうの……」なんて秀吉を転ばせるような独り言を言う。「ハワイか……」----北朝鮮を国籍に選んだバリバリのマルクス主義者でもある秀吉が、ポツリと呟く。こうして杉原家の玄関にはレイをかけた両親の記念写真が飾られることになった。朝鮮籍のままでも複雑な手続きを経れば海外旅行もできるのだが、父はあえて赤表紙本や党員バッチを「もう要らない」と返却し、韓国籍へ変えた。何故なのかはその時の杉原にはわからない。パチンコの景品交換所を営む父は、国籍変更で随分仲間をなくしたり嫌がらせを受けたはずだ、何も言わないけど。そういえば警察からの帰りに、あまり綺麗じゃない海岸で水平線を見ながら、「広い世界を見ろ」なんてクサいこと言われたっけ……。とりあえずポルノ映画館の看板を見上げてみたけど、暇なパトカーに「社会の屑」呼ばわりされて逆上したタワケ先輩が、そのパトカーのフロントガラスをブロックで割って、あわてて逃げるハメになっただけだった。確かに民族学校の一糸乱れぬ行進練習なんてのには違和感はある。あだ名は“クルパー”だし、自分の将来の姿もうまく描けない。杉原は決心して、景品交換所の父に言う、「韓国人になる。でもハワイには行かねえ、日本の高校を受ける」と。----「で、今こんな感じ」と、飛び蹴りバスケ(?)シーンに戻る。 この一件でバスケ部をクビになり、猛者達が次々に喧嘩を挑んでくる。幼い頃からボクシングを叩き込まれたおかげか、現在24連勝中だ。記念すべき初挑戦者は、彼に鼻をへし折られて整形したせいでモテモテになったという加藤(村田充)。実は広域暴力団の幹部の息子で、家に呼び出された時は肝を冷やしたが、今では唯一の日本人の友人だ。クラブで18歳の誕生パーティをやるという。パー券をタダでくれた。その当日。プレゼント用に小遣いをもらいに交換所に行ったら、秀吉が落ち込んでる。あくどい警察OBに交換所がいくつか奪われたのはいいとして、「ママが……」とほざく。母が何回目かの家出をしたのだ。いつもの家出先である焼き肉屋を訪ねた杉原に、母は手ずから肉を焼いて食わせようとする。そこで元秀らに再会して「日和った」だの文句つけられて、民族学校時代の「総括」の時間を思い出した。HR代わりのその授業で、日本語を使ったと言って元秀を自己批判させる=殴りつける先生、地獄のキンキン(塩見三省)。日本の高校に行くのがバレて、殴りつけてくる彼が罵るように、杉原は「民族反逆者」なのだろう。もっとも母に言わせると、「親のスネ齧ってるうちは民族もクソもない、ただのガキよ」なんだけど。デザートのパイナップルをプレゼント用にクスねてクラブをノゾいた。そこで杉原は不思議な女の子(柴咲コウ)に出会う。ちょうどウォークマンで落語の「紺屋高尾」を聞いていた時だ。紺屋の使用人が、手の届かない高級な花魁・高尾太夫に一目惚れするくだりをBGMに、彼女がクラブの階段を下りてきた時点で、すでに杉原は恋をしていた。と、彼女はまっすぐこっちに来て、いきなり手を握って彼の名前を当てる。「??」。バスケをやってるとかまで「サイコメトリで読みとった」と言い出す彼女。読んでた文庫本を「『ライ麦畑』ね」と言われてうっかり肯いてしまったが、ま、それは置いといて、何故自分を知ってるのか? それには答えない彼女と二人でクラブを抜け出し、近所の小学校の校庭に忍び込む。映画の話なんかで盛り上がる。「桜井」という名字は教えてくれるが下の名前は内緒だとか……だから杉原も教えない。「日曜日何してる人?」「友達と会う人」「彼女いる人?」「いない人」「私嘘は嫌い」「さっき読んでたのは落語。これで嘘はなくなった」------でも、自分が日本人ではないって言わないのは、嘘になるのかな? 校門を飛び越えた杉原に、「あの時も飛んだよね……じゃ電話して」とだけ言って、手も振らずに去っていく彼女を呆然と見送る。夜、秀吉といつものランニングに出かけたら雨が降ってきた。ボクシングを始めた頃を思い出す。父は雨の中で空を見上げる。「天国までつながってるみたいな雨だよな……天国っていい国なのかな」なんて言い出して、「そういや昔、スペイン人になりたかったんだ」とスペイン語を大声で叫ぶ----「ノ・ソイ・コレアーノ、ニ・ソイ・ハポネス、ジョ・ソイ・デサライガード」。「どういう意味?」「自分で調べろ」と父(観客は原作を調べろ!)。と、傘を持って母がいた。「ちゃんと仲直りしろよ」とハズす杉原。今度は玄関にスペイン観光する両親の写真が飾られることになった……。 杉原が休みに会う友達というのは、民族学校開校以来の秀才、なんて言われてる正一[ジョンイル](細山田隆人)だ。「総括」の時間に「売国奴め!」とキンキンに殴り倒された時、「僕たちに国なんてありません」と彼を庇ってくれて以来の親友だ。亡くなった父親が韓国人で母は日本人、でも高校も民族学校にいて、大学を出たら民族学校の先生になると言う変わり種である。落語に小説に学術書……何でも詳しい正一と喫茶店でダベり、焼き肉屋で看板娘のナオミさん(キム・ミン)を、落語「疝気の虫」みたく、プライ(金玉)ネタでからかったり、ミクロの世界=ミトコンドリアDNAの蘊蓄を語ったりするのは楽しかった。あと関係ないけど母が「店で平田満に会った」と自慢していた。桜井ともデートを重ねた。国会議事堂の正面で待ち合わせて、動物園の白熊を見たり、何度目かのデートで道路の白線を伝って延々と歩いて、そのまま彼女の家に辿り着いたり。日本人の家庭で食事をするのは初体験だ。家族に紹介されて食事しながら、落語「酢豆腐」の知ったかぶりのキザ野郎みたいに間抜けなリベラル派の父親は、海外赴任経験を自慢し「日本が嫌いだ」とかぬかしてる。悪気がないだけ余計に始末が悪いタイプだ。噛み合わない会話を早々に切り上げ、彼女の部屋でオペラを聞きながらキス……。それからもっぱらデートは彼女の家だ。でも最後の一線は何故か越えられなかった。彼女とオペラ(桜井の好きな『椿姫』はしばらく演らないので『カヴァレリア・ルスティカーナ』にした)を観るために、焼き肉屋で皿洗いのバイトを始めた杉原は、バイト仲間になった正一に、行方不明になったタワケ先輩のことを語る。あれだけ逃げ足の早かったタワケ先輩も、指紋押捺からは逃げられなかった。タワケ先輩から聞いた最後の言葉が「行け」だったって話すと、正一も別れ際にマネをした----「行け」。 そんな正一が「話したい事があるんだ。すげえ事なんだ。オマエならわかってくれると思うんだ」と電話してくる。週末に会って話す約束をしたのに、彼はその「すげえ事」を話さずに逝ってしまった。誤解がもとで起こった事故だった。葬式のあと、杉原と会った桜井は、彼を慰めようとホテルに誘う。だが最後の一線を越える前に、杉原には言わなきゃいけない事があった……。 なんだろ、いわく言い難い感動のある映画だった。笑える。泣ける。派手なアクション(笑)の数々に爽快感を味わえるし、ウブな恋愛模様にくすぐったくもなる。主人公の怒りを共有して怒り、または本質的には共有できないことに哀しくもなる(僕は在日日本人なので)。もどかしさも若干感じる。すんなり「在日コリアンの青春ドラマ」なんてジャンルで語ってはいけないような気もするし、ある種の「ヒーローもの」とするには苦さが残る。一昔前の「不良もの」のような痛快なノリと、生真面目な社会派作品の問題意識が同居していて、居心地がいいのか悪いのかよくわからない居心地の悪さがある←なんだそりゃ。これは、オカマっぽい役まで器用にこなす独特の役者、窪塚洋介のキモカッコヨサ(?)の魅力とダブってて、微妙に複雑な感慨のある映画に仕上がっているのだ。 原作は昨年上期、第123回直木賞を受賞した金城一紀『GO』。数十社から映画化のオファーがあったというこの青春小説を、TVドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の宮藤官九郎が脚色、『ひまわり』『閉じる日』『贅沢な骨』の行定勲が監督したものだ。さて。松尾スズキ率いる劇団・大人計画の役者(作・演出もする)でもある宮藤官九郎の、コミカルでスピーディな脚本は『IWGP』のぶっ飛び方で充分堪能して大好きなんだけど(TV『ロケット・ボーイ』はアクシデントもあって苦労してたが)、彼の脚本は、行定勲(『贅沢な骨』レビュー参照)の私的な過去の痛みを巧みに叙情的に描くような持ち味とはミスマッチじゃないか、と観る前に思ったのだ(僕はどっちも好きなんだけど、傾向が違う)。で、観てみたらやはりそのミスマッチ感はあるんだけど、行定監督がちゃんと頑張ったのか、堂々たるメジャー映画になってたのだ。凄い。クドカン節の毒気(笑)にも負けず、しっかり撮るべき画は押さえて、ちょっとしたギクシャク感を「在日」を語るギクシャク感とダブらせつつ、名台詞だらけ、見せ場だらけともいえる原作や脚本の饒舌な情報量を見事に処理。あの正一が「行け」というシーンの、映画が微妙にスローダウンする感覚なんてドキッとさせる繊細さ。そのくせ監督ってば「女の子が着替えるシーンは、僕の映画には絶対出てきます」なんてエッチなこだわり(?)を持ってたりするのでそこも繊細にたっぷり……って(笑)、なんて欲張りな「男の子」映画なんだろ。「原作は童貞チックなので、主演が窪塚に決まった時点でもう少し色気と色香を」とか「原作の桜井はスノッブで鼻につくので、もうちょっと天真爛漫なイメージに」とかヒドイことも言ってるし(ぴあ10/22号より)。というワケで行定勲監督のメジャー・デビュー作は、何だか妙に面白いものになってしまったのだった。とにかく全ての「男の子」と窪塚ファンの女子は観逃さないように! 「原作がいい、脚本がいい、監督がいい、共演者がいい、すべていい」とプレス資料で語るのは、この映画で準主役級の大活躍をする山崎努(『天国と地獄』『お葬式』『天国から来た男たち』『女学生の友』他多数。豊川悦司と出てるビールのCM連作も最高だ)。彼が演じてみせた主人公の父・秀吉役って、イマドキちょっと珍しい「凄い父親」像だ。父親って、他の在日文学では単に暴力的な軽蔑すべき男として描かれがち、というか現代日本では父親がいかに情けないか、存在感がないかを描くのが基本(もしくは天皇制のカリカチュアになる)なんだけど、この秀吉は強くて賢く(独学のインテリ!)て愛妻家で、息子ともちゃんと対峙しつつ、現在進行形でしっかりモノを考えてるってな感じ。このなんとも含蓄深いキャラクターを、山崎努はきっちり血肉化させていた。彼は同時期公開の日活映画『Go!』にも「謎のライダー」役(笑)で出てるんだけど、そちらをこれ程ホメるかどうかが気になるところだ。しかしなんで同じような題名にするかな(東映への対抗心?)。そういや99年10月公開の洋画にも『go』ってのがあった(原題は『Go』、でもスクリーン上では『GO』だった。『スウィート・ヒア・アフター』のサラ・ポーリー主演の若者三者三様映画)。つまり“ゴー”ってのは「勢い」と「若さ」と「単純さ」を象徴する語なのね、たぶん。で『Go!』の方もスーパー高校生だかなんだかとモテはやされてる男の子が主演なんだけど、さすがに窪塚クンの方が格上って感じだ。映画『卓球温泉』(98)にヨースケ名義で出てたのを今ふと思い出したんだけど、窪塚洋介のデビューは95年TV『金田一少年の事件簿』第5話だとか。その後、TV『GTO』『天国に一番近い男』『リップスティック』『池袋ウエストゲートパーク』『少年H』『ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ』『もう一度キス』などで活躍し、映画『溺れる魚』では女装趣味の刑事役を怪演。『ランドリー』『ピンポン』と主演作が待機中だ。とにかく彼が杉原役で主演しているってのが、この映画の大きなポイントだろう。対するヒロインの桜井を演じているのはTV版『アナザ・ヘヴン』や映画『東京ゴミ女』『バトル・ロワイアル』の柴崎コウ(CM「ポンズダブルホワイト」の印象も強い。『化粧師〜KEWAISHI〜』『サウンドトラック』が待機中)。あ、TV『レッツ・ゴー!永田町』にも出てるゾ。そういやタワケ先輩役の山本太郎も『バトル・ロワイアル』組だな。「『GO』は同じ東映映画である『バトル・ロワイアル』の深作欣二監督への、若手作家達からの返歌だ」って説もあるようだし、あれくらい客が入って完全版なんかもあったりするといいなぁ…と、つい思ってしまった。他にも大竹しのぶのマイペースなお母さん役も素敵で、その本当に微笑ましい夫婦ぶりも可愛いし、地獄のキンキン役の塩見三省(『四月物語』『MONDAY』『ユリイカ』など)も凄い迫力で笑わせるし、若い警官役の萩原聖人も、タクシーの運ちゃん役の大杉漣も、それぞれ出番は少ないのに印象的なキャラになってる。やっぱりキャラクターがみんな立ってるんだよな。それがちょっとうるさくもあるんだけど…たっぷり感を味わえるんだから、ま、いいか。 オマケ。原作を読んでて、3回泣いた。まず正一の最期を淡々と描いた章、それから「うーうーうー」って所、んで元秀との駅のホームでの会話、の計3カ所だ。読み返して同じ箇所で泣けた。最初のは、日本の抱える歴史的な民族問題が集約されたかのような悲劇に対する「なすすべのなさ」、そこに呆然とするしかないような哀しみが押し寄せる。そして泣かない意地っぱりの代わりに泣いてやる気分の「うーうーうー」。最後のは、どうしょうもないくらい羨ましい絶妙な友情(正一との間とはまた違う友情だ)に嫉妬しつつ、懐かしいような哀しさが涙を呼ぶ。2つ目のは、映画では落語の寄席で『ロミオとジュリエット』を読みながら……ってシーンになっているけど、最後のは映画にはない(だから映画版の元秀はちょっと可哀想)。いや、さすがに小説も映画も、主人公が格好良すぎる(インテリを馬鹿にできるほど知性派でいて実践的な武闘派でもあり、愛嬌もあるイイ奴で、皮肉もいっぱい吐くのに慕う奴には慕われるフィリップ・マーロウより格好いいヒーロー造形で、まわりを置き去りに自分一人で勝手に成長して、愛しい彼女まで手に入れる)とか、適度にメジャーな固有名詞を散りばめたウンチクを披露しまくる名台詞だらけのモノローグ文体にちょっと鼻白む(特に洋画オタクじみた映画の大量引用や、ハク付けの学術系文献の引用のこなれてない偏り感は、ちょいサムいところ)とか、居心地の悪い引っかかりも多々ある。んだけど、でもやっぱり泣かせるのだ。さんざんクスクス笑わせておきながらズルいって気分もある。さっきも書いたけど「父親像」の格好よさ、暴力的だが身についた知性が随所にあふれてる感じは、原作だともっとディテールの書き込みがあってホント(ある意味で)羨ましいくらいだし。クライマックスの父と子の対決シーンも圧巻だった(これは映画でも見事に再現されていた)。まあ映画では、景品交換所を経営してるってのが若干わかりにくいとか、正一を刺した相手がどうなったか描かれてないとか、タワケ先輩のその後が原作より気になる感じになってるとか、いくつか問題もある。気になった人は、ぜひぜひ原作小説も読んで欲しいのだった。ちなみに映画オリジナルの落語ネタは、僕は「紺屋高尾」「疝気の虫」「酢豆腐」3作とも入ってる麻生芳伸編のちくま文庫『落語特選』(上巻)で読んだけど、比較的入手しやすいので一応オススメしておこう(原作に出てくるラングストン・ヒューズ詩集の方は調査中。見つからん)。あと「在日」映画とかいうジャンルにまとめて、『月はどっちに出ている』や『家族シネマ』、撮影中の『夜を賭けて』などと『GO』を並べる論評を見かけたけど、僕は今年の春頃に劇場公開された『アンニョン・キムチ』(在日三世の映画学校の生徒が撮ったドキュメンタリー映画)の方が、他の「恨」を起動力にしたような古い系譜よりもずっといい、と素朴に思ったんだけど、どうなんだろう? この『GO』は日韓同時公開らしいので、アチラの反応も気になるところ。まあ、こういう邦画がまず日本の若い観客に「マスト・アイテム」として受け入れられることを、切に願う僕なのだった。 Text : 梶浦秀麿 Copyright (c) 2001 UNZIP |