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旧東ドイツに生まれ、幼い頃から毎日夢中でラジオばかり聴いていたハンセルは、デビット・ボウイやルー・リードに憧れ、いつか自由の国アメリカに渡ってロックスターになることを夢見ていた。ある日、ハンセルは優しいアメリカ兵ルーサーに出会う。「君を愛している。結婚しよう。」と言うルーサー。しかし、結婚して渡米するためには性転換手術を受ける必要があった。嫌々、手術を受けたものの、不手際で「怒りの1インチ(アングリーインチ)」が彼の股間に残されてしまう。“アングリーインチ”を残したまま、名前をヘドウィグに変えて女性となり、晴れて渡米するが、ルーサーはすぐに彼女の元を去ってしまった。テレビでベルリンの壁が崩壊するのを見た彼女は、自分の人生は終わったと絶望する。しかしロックスターになる夢を思い起こし、ロックバンドを結成して歌い始める。そんなある日、ベビーシッターのアルバイト先で17歳の少年トミーに出会う。ヘドウィグはトミーにすべての愛情とロックシンガーとしての魂を注ぎ込むが、トミーは彼女を捨てたばかりか、彼女のオリジナル曲すべてを盗んで、ビルボードNo.1のロックスターになってしまった。裏切られたヘドウィグは自らのバンド「アングリーインチ」を引き連れ、トミーの全米コンサートを追い、会場近くの場末のレストランを巡業するが…。
ロック・ミュージックってこういうものだった! 忘れていたロックの良さを思い出させてくれたのがこの映画だった。「ロック」の定義は様々だが、精神論的な部分を抜きにしては語れない音楽だとわたしは考えている。それ故に心の深いところにまでダイレクトに歌い手のメッセージが届くのだと思う。…だけど。時にそれを受け入れたくないこともある。ロックはわたしにとって聞き流すことの出来ない音楽であり、それを理由に殆ど聞かなくなっていたのだ。「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」は、もともとがオフ・ブロードウェイで評判になったロック・ミュージカル。全編がロック・ミュージックに満たされている。疎外されている側の人間=社会的弱者が自由を求める魂の叫び。歌うこと以外に解放されるすべを持たない心は、ライブステージの上で痛々しい程に剥き出しになる。心を揺さぶられ、涙を流してスクリーンに釘付けになっている自分は、本当はロックが好きだった! 個人的な話から始めてしまって申し訳ないが、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」はロック・ファン以外にも受け入れられる映画だと思う。なぜならヘドウィグが求めているのは失われた自分のカタワレ。ドラッグ・クイーン、ロック、といったモチーフを用いながらも、本作のテーマは普遍的なものであるからだ。誰もが意識する、しないに関わらず求めているもの…自分の欠けた部分を埋めてくれる、「誰か」もしくは「何か」。そして不完全に見えた彼女こそが実は完全な存在だったということが、探しものを続ける私達に希望を与えてくれる。 “グラムロックの映画”ということで「ベルベット・ゴールドマイン」と比較されることの多い本作だが、「ベルベット・ゴールドマイン」がグラムロックへのノスタルジーを描いたものであったのに対して、ヘドウィグは今を生きている。リアルで痛くて、でも心から感動できるいい映画です。 Text : nakamura [UNZIP] Copyright (c) 2001 UNZIP |