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夜に何かを載せた列車が走る。1942年、ナチス占領下のポーランド。クラクフの街で、大学教授夫妻が11歳の息子ロメック(ハーレイ・ジョエル・オスメント)にキリスト教の祈り方を暗唱させている。ユダヤ系の彼らは、ひとまず息子を田舎に逃がそうとしていたのだ。ジャガイモ袋に詰め込まれ、父の友人の農夫グニチオ(オラフ・ルバスゼンコ)の馬車の荷台に積まれたロメックは、夜の街路で、ユダヤ人というだけでナチスの将校にあっさり銃殺される光景を見て呆然とする……。なんとか無事に東部の鄙びた村に辿り着く。親戚だと偽って彼を匿うグニチオには、美しい妻エラと二人の息子がいた。12歳のヴラデック(リチャード・バーネル)とその弟のトロ(リアム・ヘス)だ。ヴラデックは最初は喧嘩腰だったが、子供の常で、徐々に打ち解け合うことになる。トロは少し変な子だ。両親が睦み合う声を盗み聴いては「ママが怖い夢見てる」と真剣に心配したり、兄や仲間の言うことをすぐ真面目にとってしまう。「トロはトロいんだ」とヴラデックは言う。生まれて初めての村の教会に行った時は怖かったが、神父(ウィレム・デフォー)はロメックがユダヤ人であることを既に知っていて、彼がカトリックに偽装することを許していた。カトリックにしては寛容な神父は、日曜日の説教で「人はみな雑種だ」と語り、子供達にも「イエスもユダヤ人だ」と教えるのだった。ナチスの兵は村にも駐屯していた。ユダヤ人は言うまでもないが、豚をこっそり飼う者も、見つかればその場でナチに処刑される。だが貧しい村人は隠れて豚を飼うしかなく、見つかる毎に子供達の目の前で平気で殺されてゆく……。神父は止めようとするが無力だった。ヴラデックの女友達、マリアの両親もナチに処刑されていた。ロメックは思う----「世界はめちゃくちゃだ、2たす2は4ではない……」。選んだ男の子とアソコを見せ合う遊びなんかをしているマリアに、神父は「聖体拝受まで純潔でいるように」と言い、その時に食べる丸い聖餅が何かを子供達に訊く。「ウエハース」「いや、ロメック?」「イエス・キリストの肉と血です」。と、神父は手のひらをナイフで切って見せるのだった。ある日、神父は子供達に「12使徒」のそれぞれの役を振るゲームを教える。トロは「イエス様も入れなきゃ変だ」と言い張り、自らイエス役に志願するのだった。「磔だぞ」「いいもん。でももう僕を川に落としたりできないからね!」。それから彼の奇行がはじまる。手に釘を打とうとしたり、茨の冠を帽子の下にしてみたり……。もとは遊び仲間のピラが「訓練したらイエスになれる」とそそのかしたせいなのだが……。やがて酒癖の悪い隣人クルーバと一緒に夜闇をついて豚を売りに出掛けたグニチオが、死体となって帰ってくる。トロの奇行はエスカレートする。雨の中を走りまわって病気になったり、自分を磔にするように頼んだり……洗礼ゴッコを真剣にやった後、トロは言う。「僕は磔になる。そしたらあの人達を呼び戻すから……パパ、マリアのパパ、ロメックのパパ……世界は平和になるよ」と。だがピラは年長の不良ロバールについてグループを抜けてしまう。ロバールはクルーバの息子だった。夜。村の側を通る“汽車”から飛び降りる人達を目撃するロメック。ロバールは“彼ら”から金品を略奪するのを日課にしていた。教会で、神父とクルーバが口論していた。グニチオの死について問いつめる神父は、逆にロメックのことでクルーバに脅されてしまう。隠れて見ていたロメックに、神父は「心配しなくてもいい」と慰める。まだ聖別してない聖餅のウエハースを丸く切る作業を見せ、余りの切れ端を与える。「端っこは使わない」「……僕らは祝福されてない?」「人間はみな端っこさ」。マリアはロメックに幼い愛を告白する。「都会ッ子と結婚よ!」とはしゃぐマリア。トロの磔ゴッコに協力してた子供達は、ロバールに冷やかされてゴッコをやめ、本気のトロを哀しませる。教会で、“汽車”の収穫を寄付するロバール。「ママの指輪だ」「別のママのだ」と怒りを隠せないロメック。ロメックとマリアを尾行したロバールは、ロメックを痛めつけて崖から川に落とし、マリアを犯す。こっそり見ていたトロは兄を呼び、ヴラデックは川に飛び込んでロメックを助ける。ヴラデック、マリア、ピラ、ロメックの聖別式が間近に迫っていた……。ヴラデックは父の敵討ちに“汽車”へと出掛け、跡を追ったロメックはヴラデックを逃がそうとして、巡回していたナチスに見つかってしまう。彼が脱走者を処罰していたと思って「偉いぞ」と褒めるナチの将校は、ロメックをサイドカーに載せて、捕まえた脱走者達の所へ向かう。収容所への汽車が停まっている。収奪の仕方を実演してみせろと所望され、ロバールのやっていたように金品を強奪させられるロメック。囚人として捕まっていたヴラデックを「彼は友達でユダヤ人じゃない」となんとか助けようとするロメック。そこにトロが現れて……。
痛い話だ。ナチス占領下のポーランドの田舎であった史実を元にして、ユダヤ人少年の受難を描いたものだが、キリスト教のエッセンスをふりかけて、ちょっと聖人寓話タッチに仕立ててある。原題は直訳すれば「主の端っこ」で、格好良く訳せば「主の栄光の及ぶ世界の縁」(中沢新一のプレス解説より)になる。映画では聖餅の使わない端っこにかけてあって、四角い世界を丸く切り取ったら、人は皆その円の内側ではなく外側にいるのではないか?って問いかけることになる。つまり、主の栄光の及ばない悲惨で不条理で過酷な場所で、それでも「主の栄光」を信じることの意味を問うのだ。で、無神論者の目で映画を見ると、割礼(チンチンの先ッチョを切る)するユダヤ教の異質さよりキリスト教カトリック儀礼のヘンテコさが際立つ。農夫を救えず自らを鞭打って罰する神父とか、「イエスの血と肉を食べる」とか、何より丸いウエハース菓子を食べる食べないで改宗とか背教の大問題に繋がっちゃうのが馬鹿馬鹿しい迷信に思えてしまうのだ。子供達も「イエスは女嫌いだ」とか素朴かつ大胆な解釈をしちゃったり。偽キリスト教徒の主人公のユダヤ少年のほうがスラスラお祈りを唱えられたりするのも皮肉な話だ。現実と乖離した信仰が、戦争やナチ、反ユダヤという現実によって試された過酷な時代の物語は、どれも苦く救いがないのだが、繰り返し語られる信仰者(ユダヤ教もキリスト教も)の受難は、無神論者を居心地悪くさせる“力”を持つ。それを感動と呼ぶこともできるが、教化洗脳に乗せられる気分もあって、なかなか難しい複雑な感慨といった方が近いのかもしれない。 |