[ドニー・ダーコ] DONNIE DARKO
2002年8月31日よりシネマスクエアとうきゅう他にて公開

監督:リチャード・ケリー/製作総指揮・出演:ドリュー・バリモア/出演:ジェイク・ギレンホール、ジェナ・マローン、メアリ・マクドネル、パトリック・スウェイジ、ノア・ワイリー、キャサリン・ロス他
(2001年/アメリカ/1時間53分/配給:アスミック・エース、ポニーキャニオン)

【STORY】
今朝もまた山の上近くの路上で目が覚めた。着てるのは寝間着で、アスファルト道路の端に自転車が転がってるから、それに乗ってきたらしい。僕はドニー・ダーコ(ジェイク・ギレンホール)、16歳。世間的には精神病を患っていて、こうして夜中に夢遊病者のマネごとをしてしまう癖がある。チャリを飛ばして、マサチューセッツ州の富裕層が住む郊外住宅地、ミドルセックスの自宅へと向かう。父エディ(ホームズ・オズボーン)は芝生をブロウケアしつつ、大学浪人中の姉のエリザベス(マギー・ギレンホール)をからかっている。小学生の妹サマンサ(デイヴィ・チェイス)は庭でトランポリンに興じ、母ローズ(メアリ・マクドネル)はテラスのリクライニング・チェアで読書中。キッチンの冷蔵庫のドア・ボードには「ドニーはどこ?」と書いてある。これが僕の家族。夕食では次の大統領選でデュカキス派の姉とブッシュ派の父が軽い口論を愉しみ、それを僕が卑語で混ぜっ返して顰蹙を買う。その夜、1988年10月2日の午前0時を過ぎた頃、僕は「起きろ」という声を聞く。外では不気味なウサギの着グルミ男が待っていて「フランク」と名乗り、世界の終末を告げる。「あと28日と6時間42分12秒、それが世界の終末までの残り時間だ」。翌朝、ゴルフ場で目覚めた僕が家へ戻ると、人だかりがある。なんと我が家のちょうど僕の部屋に、ジェット旅客機のエンジン(だけ)がめりこんでいたのだ……。それが僕の不思議な運命の分岐点だった。ラディカルなカレン先生(ドリュー・バリモア)の授業でグレアム・グリーンの短篇『破壊者』を読み、少年達の破壊衝動について語っていた時、転校してきた美人の(でも不幸な)グレッチェン(ジェナ・マローン)と出会った。そして……サーマン先生(キャサリン・ロス)のカウンセリング、繰り返し現れるフランク、水没する校舎と斧の刺さった犬のブロンズ像、体育のキティ先生(ベス・グラント)が心酔しているジム・カニングハム(パトリック・スウェイジ)による胡散臭い自己啓発セミナー・ビデオ、物理のモニトフ先生(ノア・ワイリー)との時間理論談義、彼の紹介してくれた、変わり者の老婆“死神ばばあ”が大昔に著したという『タイム・トラベルの哲学』という時間理論の本、美しい響きの言葉「地下室の扉」というキイワード……。そうして、世界が終わるその時がじわりじわりと近づいてきたのだった……。さて、僕は終わる世界を救えるだろうか?

【REVIEW】
凄い! 完璧! 映画のラストのラスト、女性二人のあるほんのささやかな仕草で、僕は思わずドッと泣きそうになってしまった。映画『ドニー・ダーコ』は、時間論SFと「独我論的懐疑」問題が絶妙に融合した“鮮烈な青春ストーリー”であり、あるいは“恋人を、家族を、世界を救済する孤独なヒーロー物語”でもあったのだ(←って言い切るか!)。映画批評家連中の前評判が悪かったので、油断して舐めてたんだけど観てビックリ、なんとも切なく感動的な傑作じゃないか! 「あいつら何もわかってへん!」と無性に怒りたくなってしまった。いやはや、僕にとっては昨年の極私的ベスト『贅沢な骨』に匹敵する傑作であり、<『D in the D(ダンサー・イン・ザ・ダーク)』から『D・D(ドニー・ダーコ)』へ>ってな流れも考え得るような、一筋縄ではいかない豊饒さを秘めた問題作だったのだ。同時期公開の「誰もが傑作と認める」と評された『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の方が逆に「粗雑で未熟で受け手を選ぶ」映画じゃん----ってなホメ方をしたくなるほど(←ここらへんスタジオボイスの長谷川町蔵の評に喧嘩売ってます)。これって僕の方がひねくれてんのかなぁ……。ま、いいや。某映画サイトがこの映画の「ジャンル欄」に「スリラー/サスペンス/ホラー/ミステリー/ドラマ/ロマンス」と並べまくっててたのもムべなるかな(でも「スリラー」「ホラー」ってのは……)。僕ならさらにまず「SF」、あと「バイオレンス」「ファンタジー」「家族もの」「サバービア(郊外住宅地)もの」、ついでに「ラブ・ストーリー」とか「社会派」とか「コメディ(トラジコメディ?)」などなどまでつけ加えたい。つまりジャンル分けを拒む要素に充ち満ちているのも、この映画の面白いところなのだ。だからメタ映画的な観方もできる。例えば。本作ではスローモーションを多用していて、観客それぞれの10代の青春の甘酸っぱい記憶をくすぐってくれるんだけど(どこか松本大洋『GOGOモンスター』のクライマックス後のチャリンコ・シーンを思わせてドキドキする)、この「時をゆっくり進ませる」って「映画特有の時間操作」技術は、本作で思考された「タイムトラベルの哲学的探究(決定論的時間論と自由意志の関係の模索)」が必然的に要請する「虚構内での擬似タイムトラベル」ってのを、観客に(再)体験させる仕掛けのひとつであり、もっと言えば本作で用いられた「予知/予言の成就」といった虚構=物語の基本(原初的/神話的)手法こそが、タイムトラベルというSFツールに秘められた「人生をやり直すこと」への欲望と鋭く対峙し、それゆえ映画自体が「時間」そのものの謎へと誘うメタフィクション仕掛けになっているのである。この語り口の完璧さは特筆に値するんだけど、説明が長くなりそうなので続きはコラムの方でやることにする。とにかく必見の映画なのだ。

『メメント』が脚本賞、『初恋のきた道』が世界映画観客賞を受けた2001 年のサンダンス映画祭で「おそろしく独創的!」「2001年の最も優れた映画」「最高の盛り上がりをみせた作品」と話題を呼び、2002年ゆうばり国際ファンタスティック映画祭にも出品された本作。脚本・監督は弱冠26歳のリチャード・ケリーで、ドリュー・バリモア(『E.T.』『炎の少女チャーリー』『ウェディング・シンガー』『エバー・アフター』『25年目のキス』『チャーリーズ・エンジェル』など)が脚本に惚れ込んで製作・出演を買って出てくれるという、実にラッキーな長編監督デビューとなった。主演は『遠い空の向こうに』のジェイク・ギレンホール(実は『天才マックスの世界』のジェーソン・シュワルツマンが主演予定だったとか)。『グッドナイト・ムーン』『海辺の家』『イノセント・ボーイズ』のジェナ・マローンがヒロイン役。他にパトリツク・スウェイジ(『アウトサイダー』『ゴースト ニューヨークの幻』『3人のエンジェル』『ハートブルー』『ボイスレター』など)、キャサリン・ロス(『卒業』『明日に向かって撃て!』『ベッツィー』『ファイナル・カウントダウン』など)、メアリ・マクドネル(『ダンス・ウィズ・ウルブズ』『スニーカーズ』『インディペンデンス・デイ』など、TV『ER』にも出てる)、ノア・ワイリー(TV『ER』)ら有名俳優陣が参加している。また全編を彩る1980年代の英国ニューウェーブ・ロックの数々にも注目だ。エコー&ザ・バニーメンの「キリング・ムーン」に始まりティアーズ・フォー・フィアーズの「マッド・ワールド」で終わるって選曲、その歌詞にまでこだわった使用法も含めて、「1988年」という「世界の終わり」を全方位で描き出そうとしている野心作でもあるのだ。一度観てわかんないなら何度も観るべし。実際リピーターも続出中とか。なお古屋兎丸の弟子筋に当たる漫画家(コミック・アーティスト?)D[di:]によるマンガ小説化もされている(ソニーマガジンズ刊)ので参考しよう。微妙な細部が映画と違うんだけど、そこを研究してみるのもいいかもね。

Text:梶浦秀麿


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