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【STORY】
手のアップ――合気道の手の構えがアヴァンタイトルだ。そして光に溢れるカーブ、強烈なライトの下でのボクサーの闘い、横たわって見る医療チューブ、駐車場で待つ彼女、強烈なアッパーに右ストレート、フロントグラスがベコンとへこむ――二人乗りのバイクが突然飛び出してきた乗用車に追突される映像と、ボクシングの試合シーンがフラッシュバックのように交互に描かれ――「タイチ!…だれか救急車!」と彼女の悲鳴めいた声。 ……「アシハラさん、聞こえますか?」――病院のベッドで目覚めた芦原太一(加藤晴彦)は、新人王決定戦の準々決勝で劇的勝利を収めたその帰りに、恋人チカ(木内晶子)を乗せたバイクで事故ったことを、ぼんやり思い出す。3日たっていた。下半身の感覚がない。チカは右足と肋骨の軽い骨折だけらしい。ホッ。だが自分は脊髄損傷による下半身麻痺という診断。「俺、カムバックできますよね?」「ボクシングですか? もう諦めましょう。今後、君は車椅子の生活になります」と医師に宣告され、思わず吐く。事故の相手(田口トモロヲ)は小さな会社の社長だったが、倒産寸前で金策に走り回っていた時の事故で、保険は切れていた。警察で取調中、署のトイレで首を吊って死んだ。太一の身内は姉の民子(原千晶)だけ、将来の見通しは暗い。失意の太一は、チカや仲間達の見舞いに「もう来んな」と罵り、自殺した事故相手の妻子が土下座しにきても冷たく突き放す。まだ小さい遺児に「お前の親父はクズだよ、クズ」と執拗にくり返す。同室になった自称「脊髄損傷の先輩」常滑(火野正平)は、太一に辛辣なアドバイスをしたり、飄々として看護婦に戯れたりしているが、実は家族のために入院を長引かそうと必死だった。そんな常滑に、ため込んだ睡眠薬で自殺しようとしているのを見抜かれ、「あと1年だけ生きてみな。それでも面白いことがなきゃ、俺は止めねえよ」と諭される太一。――それから1年。「面白いこと」は何もなかった。退院したものの障害者にはハローワークも冷たい。姉の結婚は自分のために延期になった。定期検診にもリハビリにもいかず、事故相手の妻が送ってくる書留が来る度にパチンコに明け暮れ、車椅子で飲み歩く自暴自棄の日々。ある晩、チンピラに絡まれた女性を救おうとして、叩きのめされている所をテキ屋の親分、権水(桑名正博)に助けられ、その侠気を買われて神社の祭りの夜店の仕事をもらう。慣れない露店での初仕事の夜、閑古鳥が鳴いてる店に目をとめた女が、客寄せのコツを教えてくれた。"イカサマのサマ子"と名乗るその女(ともさかりえ)は、この神社で巫女のアルバイトをしている。実は日本中を放浪している非合法な賭場専門のギャンブラーだという。サマ子の生きざまに刺激された太一は、再びボクシング・ジムに向かうが、会長には「バスケとか、車イスで出来るスポーツをやれ」と断わられる。集団競技はできないと意地を張って、さまざまな格闘技の道場を訪ねるが、どこも門前払い。そんな折、神社の境内で行なわれた古武術の奉納演武の中に、座ったまま門弟を投げ飛ばす師範・平石(石橋凌)の姿を見た太一は、その<AIKI>=合気柔術に入門を志願する。「自前の道場は持たず、公民館などで教えています。なにせ私はサラリーマンですから」と言う平石からは即答は得られなかった。後日。背広で公民館での講習に向かった平石は、管理人に「太極拳が人気なので合気道の時間を減らしたいんですが」なんて言われてる。仕方ないかとふと目をやると、館内備え付けの車椅子が見えた。それを借りて道場で自ら試してみた平石は、「大丈夫かな」と弟子に頷く。こうして「どうせまた断わられる」と思っていた太一は、晴れて入門を許されるのだった。気負いのない先生の独特の雰囲気に戸惑いつつも、太一の修行が始まった。権水とはスナックで「全然勃たないの?」「半勃ちには」「んで出るの?」「なんとなくじわっと……でも俺はまだいい方ですよ、全滅の人もいますから」なんて下ネタ話で盛り上がる。全滅の人=常滑を少し思い出す。サマ子からフェイクという子犬をプレゼントされて、そいつと早朝ロードワークに出る。スナックのママさんにレンタルビデオ店のバイトも紹介された。姉もついに結婚を決めた。なんだか人生が再び動き始めた感じだ。だが、一緒に走るフェイクが大きくなった頃、以前喧嘩したチンピラに見つかって囲まれてしまう。修行の成果を試そうとするが、車椅子のバランスが崩れて転んでしまい、ボコボコにされるのだった。せっかく取り戻した自信が萎んでいく。権水や昔の仲間が駆け付けて、皆が仇を討つと言ってくれる。でも「喧嘩の勝ち負けじゃ無くて、生き甲斐になりつつあった合気を続ける意味を見出せない」と、愚痴ってしまう太一。「合気は超能力ではない、相手をまず受け入れなければ」と諭す平石師範は、かつて師匠から「正しい問いには答が必ず含まれている。迷うのは、問いの立て方が間違っているからだ」と言われたとだけ教える。「わかんねーよ」と悩む太一は、ビデオ屋で映画談義する店長(神戸浩)と客(佐野史郎)に気をとられて転けそうになった時、何かに気付く。翌日、小学生の草野球を見ていて、転がってきたボールを投げ返そうとした太一は、車椅子のブレーキを外して反動をつけみる。「そか、そうか、そーだよ、これ!」――AIKIの手ごたえを感じた瞬間だった。道場でブレーキを外して稽古するようになり、師範も的確な指導で彼を導いてゆく。家でも筋力トレーニングに励み、ロードワークにも熱が入る。あのチンピラ達が、ボコボコにされて裸で繁華街を逃げる珍事なんてのもあるが、太一にはもはやどうでもいいことだった。姉の結婚式にフェイクやサマ子と一緒に出席し、バイバイアグラなる輸入薬を売ってるという常滑とも再会した。その薬を試して「神様、ありがとうございます!」と叫んでしまう太一。ついにサマ子とベッドインするも、肝心な時に役にたたない。でも「そんなのいらないよ、だからもっと自由にあたしのこと愛して」というサマ子の言葉で、お互いを受け入れ合う喜びを知る太一。デートを重ねる日々は、だが長くは続かなかった。ある日、ひとりベッドで目覚めた太一は、神社でヤクザ者に絡まれても平然としている神主(ミッキー・カーチス)から、「しばらくいなくなるけど修行だけは続けるように」というサマ子からのメッセージを伝えられる。賭博絡みでヤバいことになったらしい。自分が彼女のことを何も知らないと気付く。「女は謎だね」と宣う神主は「だいたい逃げる女ってのは北に向かうんだよ」とアドバイス。「あれでバイバイはねーだろ……北か…」と独りごちる太一。そんな時、北アフリカ・マグレブ共和国の皇太子がお忍びで来日。大使館でさまざまな武道家を集めた演武会が催されることになり、何故か太一もメンバーに抜擢される。演武会当日。ひどく乱暴な他流派の武道家軍団に「イカサマ」呼ばわりされても平然としている師範に代わって、いきり立つ太一。と、平石師範は「この太一クンに勝てたら私がお相手をします」と静かに挑戦を受けるのだった。皇太子自らが審判を申し出て、荒っぽい挌闘家達と対峙する太一。その結果は? そして彼の明日は……? 【REVIEW】 未来のチャンピオン・ボクサーになる予定が、車椅子の障害者になってしまった主人公。「ただ生きてるだけじゃダメなんだよ」とヤサグレるが、ある時合気柔術に出会って立ち直る――大筋はまぁそういう話なんだけど、観てみるとこれがなかなか一筋縄ではいかないディテールが仕込まれていて、妙な面白さがあったのだ。とてもよく練られた脚本で、いわゆる「再出発する障害者の姿を追った感動もの」でも「合気道(大東流合気柔術)のPR映画」でもない、いやそれらでもありながら、それ以外の何かを隠してあるのだ。何か、を敢えて言うのは野暮臭くて嫌だけど、まあ例えば「青春映画」のエッセンス、というのもモチロン詰まっていて、そこも凄く好感触だったのは言っておくべきだろう。「障害者の性」を劇中でしっかりサラリと描くという野心&手腕、なんてのが見やすい実例だけど、何かもっと深くて軽い(重くなく浅くない)感じ、「本気の脱力」っていうのか、いい感じの等身大さというのか、そんなのがあるのだ。誰のどんな人生も厳しいってことが分かった上で、不幸に見舞われた主人公の人生を敢えて重暗さや滂沱の感動なんてのからひたすら逃がし、ノンシャランと描こう!と確信犯的な意志でバランスをとっている気がしたワケだ。決して「感動の一本」とか「必見の傑作」とか「文部科学省推薦」なんてホメられようとはしていない、いわばボクシングの「世界チャンピオン」なんてのを目指してはいない映画なので、万人から絶賛評をもらう映画では無いけれど、まぁ逆にそこがすがすがしく気持ちいいって類いの作品なのである。「障害者」だの「合気道」だのはどうでもいいって気持ちで気負わずに観るとうっかり少し感動して元気になってしまう、それで障害者や合気道に観る前より少し親しみを感じてしまう、そんな残り方をする映画としてお勧めしたいと思う。 余談。犬がよかった――って感想は、どっかの原住民が初めて映画を観た時の台詞のようで恥ずかしいが、この映画の中盤から主人公のペットとして出てくる「フェイク」という犬がいい。小犬として可愛く登場して、いきなり成犬になってるという時間経過手法としても使われるんだけど、脇の脇役ながらラストシーンまで映画的に大切に扱われていて気持ちがよかった。いや、そんな話じゃなくて、フェイクって名前についてだ。ともさかりえ演じる「イカサマのサマ子」が名付け親だからなんだけど、この映画自体にも本物とフェイクという対立をめぐる問いが仕掛けてあるって話をしたい。実際、オーレ・キングストン・イェンセンという車椅子のデンマーク人が大東流合気柔術の黒帯になったって実話がネタになってる(エンドクレジットに本人も出てくる)のだが、映画自体はフィクションだ。となると、どのエピソードが「つくり」で、どれが「実際にあったこと」なのかが少し気になる。薮医者の手術シーンとか、かつての恋人が昔の仲間と結婚する話とか、某国大使館での出来事とか……。「虚実ないまぜ」って言い方もあるけど、映画的な嘘にしては妙に細部がリアルだなぁ、これは本当?とかとか思わされた時点で、既に罠にはまってるのかもしれん。障害者プロレスを追ったドキュメンタリー映画『無敵のハンディキャップ』(93)の監督だからかもだけど、障害者描写に嘘も迷いも気負いも無い感じだし、しかも主演の加藤晴彦も本気だし(「車椅子免許皆伝」と障害者の指導者に言われるほど役づくりに励んだとか、でも自然体の普通っぽいルックスなので妙なリアルさがあるとかね)、味のある女タラシ系の名優である火野正平が不能の障害者として先輩風をふかすってハズし方も、その火野が病院のベッドに腹筋無しにボタッて寝っ転がるというさりげない演技にもドキッとさせられるのだ。その癖、濱マイクこと永瀬正敏がバーテン役で二度ほど画面に出てくる遊びや、レンタルビデオ屋の店長をプロジェクト・ナビ時代から愛すべきヘンテコさが変わらない神戸浩がそのマンマのキャラで演じ、あまつさえ佐野史郎演じる変態客と寒い掛け合い漫才までする意味無しギャグもあったりと、フェイクな感覚もところどころで強調されていたりする。だいたい「セクシャルバイオレットNo.1」の桑名正博が関西弁のテキヤの大将を演じ、やはり元ARBのヴォーカルでもある石橋凌が腰の低いサラリーマン兼業の合気柔術師範を演じてるってのも、考えてみたらフェイクなミスマッチ感覚そのもの(忌野清志郎の最近のCMキャラを想起しよう)。これがまた映画全体に適度なユルさを醸し出していて、「フェイク・ドキュメンタリー」(要は『プロジェクトX』ね。あ、本作にも出てる田口トモロヲがナレーターだったよな、確か)なんて次元を超えた妙なリアル感、つまりは開き直ったフェイク感を生んでいるのだ。 ここでふとFAKEとAIKIのアナグラムを考えて、こじつけようと思ったけど、面倒なのでやめておく。ま、離れた相手を「気」の力で吹っ飛ばす(遠当ての術!)、なんてのも合気道の流派の中にはあるようなので、その胡散臭さを逆手にとってる映画なのかもしれない。実際、「劇中で登場するAIKIとはすべて大東流合気柔術を意味する」そうで、エンドクレジットの中で平石師範のモデルとなった岡本正剛(オーレの師匠である)による本物の演武シーンもあったりするんだけど、ワラワラと掴み掛かってくる大群を一人で捌いて全員を押さえ込む、なんて演武はちとやり過ぎ臭い。「呼吸・条件反射・円運動」が基本と解説されるこのAIKIは、映画を見る限り関節技の一種で、たぶん素人はあんなにうまく吹っ飛ばされず、関節を痛めるのもかまわず動いてしまって、変なコケ方でもする――ってのがリアルな描写ではないかとも思った。劇中でAIKIをイカサマ呼ばわりする他流派の人に、つい肩入れしてしまう僕もいて、この微妙なAIKIのFAKE感もまた、映画に「痛快娯楽“フィクション”」的要素を与えているワケで、しかしそうだとしたら「実話」や「本物の合気柔術の神髄」なんてものを侮辱しているのかと短絡しそうになりもするけど、結局のところ、「ドキュメンタリー手法で真実を撮ることの限界」をも熟知した上での、天願大介監督ならではの狼藉(笑) なのだ、と「円」を描いて循環してしまう納得の仕方をするしかないのかもしれん。つまりは本作に「呼吸」を合わそうが敢えて背こうとしようが、また劇中のフィクショナルな表現それぞれに「条件反射」のように感情移入したり時には反発したりしてしまう自分がいても、それもまた相手の術中にハマってるだけで、映画自体は極めて自然体な、ただの青春ストーリーでしかないのだよ、ってな風に落とし込まれる時、もはやこの映画と観客との「勝負」において、観客が「参りました」と言おうが「へへん、ちっとも効かないぜ」と強がろうが、『AIKI』の精神には何の関わりも無いですよってな悟り(諦念の上での自然体)の境地に立っているところが、小憎らしいというかヤラレタ感ありありというか、まるで「イカサマのサマ子の常勝の秘訣」を映画全体からこっそり耳打ちされたかのような不思議な感覚に襲われてしまうのだ。この映画の「妙な面白さ」ってのは、つまるところソコにあるのだろう。 いや、どうも『無敵のハンディキャップ』の天願大介監督の作品だってことで、ドキュメンタリーとフィクションの違いに妙にこだわり過ぎてるのかな。ここんところ「9.11」テロ絡みでアフガンやNYを取材した映画が次々と劇場にかかり、また『home』といった私的な「ひきこもり」ドキュメンタリーなんてのも単館公開されて、ちょっとしたドキュメンタリー・ブームでもあるのだ。パリ・オペラ座の『エトワール』と『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』という仏米対抗めいたバレエ団ドキュメンタリーがロングランしたり、ちょい前にはオウム(アレフか)信者とその周辺を撮ったシリーズ第2弾『A2』ってのやら、あるいは一部SF者の間で「今年の収穫」とされるIMAXの3D映画『スペース・ステーション』(国際宇宙ステーションのドキュメンタリーで、英語版はトム・クルーズがナレーター!)なんてのまであるのだ。まあ『プロジェクトX』のオヤジ受けあたりからこういう傾向は予想されたのかも知れないけれど、「事実をどう語るか?」についてはいろいろ問題含みなドキュメンタリー手法(ノンフィクションと名乗るフィクションもだけど)なのに、ソコんとこは厄介なので迂回したような評が多い、というかほとんど何も語られすらしていないって現状は、なんだかなぁって気分である。この手の邦画にしてはヒットした劇場公開後に割と素早くビデオ化され、レンタルビデオ屋で高回転を誇っている『突入せよ! あさま山荘事件』に顕著なように、客観的事実のふりをした微妙な偏向(例えばあくまでテロ組織としての赤軍派を鎮圧する中間管理職のドラマでしかないワケだ)も、巧い演出家がやると不快感すら感じ損ねるのが正に厄介なのだ。 逆に不快感を逆手にとって、「フィクション」「ノンフィクション」と名付けた2つの小品を『ストーリーテリング』として発表するトッド・ソロンズなんて鋭いヤツもいるのだけど、たぶんゲテモノ観たさの客層を期待するしか無いのが難儀なとこか。そういや『突入せよ!…』の逆サイドを描いた、問題含みの小説にさらに不完全なメタ化を施して映画化された駄作『光の雨 連合赤軍事件』もビデオ化されたばかりだが、全編に団塊世代向けの気持ち悪い自己陶酔による屈折(甘え)が垂れ流され、山本太郎演じる口八丁武闘派野郎(森恒夫がモデルの倉重鉄太郎)と裕木奈江演じる自己中女(永田洋子がモデルの上杉和枝)の2名に支配されたカルト集団の末路として、池内大介(坂口弘をモデルにした玉井潔)のモノローグによって描かれる事件そのものは「わかりやすい(過ぎる?)」視点だけど、それを演じる若い出演者達の現在が妙にドラマチックになるようにキャラ設定されてたり、「イマドキの若者っぽく作り込まれた台詞」で感想を述べたりするのが噴飯もの。大杉漣演じる劇中の監督が麻雀用語を知らない=学生運動していたからってな伏線に象徴される気障なナルシシズム(自己劇化)とか(撮影間もなく「この撮影はいつか終わるのか?」なんて言い出すとか失踪するとか、監督のストーカーも監督を呼び出しておいて出てこないって思わせぶりな劇演出も酷い)、あるいは山本太郎が元漫才師で現在は路上詩人(「(励ましの)言葉をください」って客に毛筆で思わせぶりなメッセージ書くアレ!)しながら新人役者「役」をしてるなど、流行に敏感な(笑)軽薄さとかも満載。そうした腰のひけたメタ化で「言い訳」したつもりでは、追悼したかったらしき「総括援助された死者達」も、ただただ間抜けに見えてしまう。ま、「自己批判せえっ」てな関西ヤクザめいた「因縁のつけ方」のいろいろ具体例ってのは勉強になる(笑)のだが、はてさて……。これを「不快感を逆手にとったメタフィクション」扱いして観たとしてもやはり酷い出来だと思うんだけど、邦画界の知的水準を探るサンプルとしては貴重かもしれん。それより同作と一緒に無料レンタルされてる『メイキングオブ光の雨』ってのがまたサイテーな演出なのだ。「インテリの犯罪」としてきっちり理解している裕木や、同じく「幼稚な革命」「アジも自己陶酔」など外見に似合わぬ知的なコメントを述べる山本(ちょっと彼が主演の『夜を賭けて』に期待しちゃった)らの、よりリアルな「今の若者の本音」を収録したという手柄以外は、ダラダラと精神主義な撮影現場(実際の山岳アジトより寒い零下27度の知床での長期ロケが売りなのだ)の紹介と、時系列バラバラな若手役者達のコメントを並べるだけ(撮影前と後の同一人物によるコメントの違いをこそドキュメントすべきなのに!)って体たらくで、メイキング監督のツッコミも弱ければ、ボケすらしない本編監督(と団塊たち)のささやかな自画自賛オチで終わらせてるのだ。「メイキング」のカタチで描かれた本編の「メイキング」なのにも関わらず、酷く浅はかなドキュメンタリー感覚で作られてることには怒りすら覚えた。本編にある「よぉ言わんわ」な二段オチの最初の方を、後のセンチなオチで締めるってなクドい言い訳そのものの幕切れ演出(さらにエンドクレジットに原作者のナレーションが入るってのも加えれば三段オチか)に加え、このメイキングでさらに「自己批判」無しに(笑)映画を完成した達成感のみを語るってオチを重ねる恥知らずさに呆れてしまったワケだ。ホントに役者達(山本や裕木だけじゃなく萩原真人や大杉漣、実は真の主役だった池内大介も頑張ってるのに!)が可哀想になる、「実話もどき」映画とその後始末の悪さで、これではとても『突入せよ!…』には勝てない。それが当たり前(つまり「オウムと赤軍派は一緒で、警察に退治される社会悪でしか無い」)って考え方もモチロン正しいはずなんだけど、だからこそ一例をあげれば「敗者の美学」をこそ=負けて死んだ者こそ美しいってな劇化を、ナルシシズムでなく仮名でもなくスキャンダラスなほどに徹底させることで一矢報いるような「映画作品上での勝ち方」もありえたはずだから、やはりこの敗北は万死に値するだろう(←ちょっとサヨク入った物言いだな、僕は何をそんなに怒っているのだ?)。ま、ことほどさように、実話のメタ劇化ってのは難しいのである。 ちょい昔に、海難事故で乗組員全員が死んでるのに、その各々の死に様を克明に描いたハリウッド映画があって、なのに「トゥルー・ストーリー(実話)」を名乗ってるのに思いっきり仰け反ったことがあった。ノンフィクションと銘打った原作を知らずに、映画が終わる寸前まで「誰が生き残ってこの記録を残したのか?」を気にしつつ観ていたから、もう呆気にとられたのなんの。こういうのを「見てきたような嘘」というのだけど、いやはや、ドキュメンタリーはもとより「実話を基にした」ってな話の胡散臭さには注意せねばいかん、という見解がほぼ完全に固まった今になって、この『AIKI』を観てしまったので、よけいになかなか興味深い思いでいっぱいになってしまったのだった。しかし長い余談だな。 あ、『AIKI』にひとつだけ文句を言うなら、ともさかりえ、相変わらず何やらせても巧い!んだけど、その意外な巨乳ぶりを散らつかせつつ、ベッドシーンは服着たままかよ! ってのは、たぶん健全な男子(障害者の男子も含む)なら誰もが思ったはずなので、代表して突っ込ませてもらって終わろうと思う。なお本作は日活創立90周年記念作品であり、第59回ベネチア国際映画祭正式出品作品でもあるとか。 Text:梶浦秀麿 Copyright (c) 2001 UNZIP |