[裸足の1500マイル] RABBIT PROOF FENCE
2003年2月1日よりシネスイッチ銀座、神奈川・関内アカデミーにて公開

監督・製作:フィリップ・ノイス/原作:ドリス・ピルギングトン(メディアファクトリー)/撮影:クリストファー・ドイル/音楽:ピーター・ガブリエル/出演:エヴァーリン・サンピ、ローラ・モナガン、ティアナ・サンズベリー、ケネス・ブラナー、デビッド・ガルビリルほか
(2001年/オーストラリア/1時間34分/配給:ギャガ・コミュニケーションズGシネマグループ)

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【STORY】
1931年、西オーストラリア。アボリジニ保護局の局長ネビル(ケネス・ブラナー)は、混血アボリジニの子供を家族から引き離し、白人に同化させる政策を押し進めていた。もともとオーストラリア西部を南北に2本になって横切る5000マイルもの長大な“ウサギよけフェンス”を作りに来た白人男性が、現地のアボリジニ女性に生ませた混血児が大量に存在したことから、この計画は始まっていた。当時「野蛮」とされていたアボリジニの中に、白人の血をひく幼い娘達がいる。彼女達をもとの野蛮な生活から隔離し、「教化」して、さらに白人男性の子を生ませることで、二代後には外見も白人と変わらない子供が誕生する――というのが「アボリジニ保護」の名目で行われていたのだ。ネビルは混血を重ねたアボリジニのスライド映像の前で、こう主張する。「混血児を文明化する、これがその答えです。人種交配も三代で肌の黒さは消滅します。白人文化のあらゆる知識を授けてやるのです。野蛮で無知な原住民を救うのです」云々…‥。

本来アボリジニは狩りをしながら大陸を放浪する民だ。ギブソン砂漠の端、ジガロングに白人が配給所を作って以来、砂糖や食料を配給してもらう配給日が近づくと、付近のアボリジニは野宿して待つ。14蔵の少女モリー(エヴァーリン・サンピ)が空をいく鳥を見ていた。「“精霊の鳥”だよ。どこにいてもお前を見守ってくれる」と母が教える。モリーは狩り上手だった。と、彼女とその妹で8蔵のデイジー(ティアナ・サンズベリー)、従妹の10蔵のグレイシー(ローラ・モナガン)という三人の混血少女を確認する白人達の姿が…‥。早速、ネビルから「隔離」命令が出て、彼女達は連れ去られてしまう。「逃げたら母親を逮捕する」とモリー達を脅し、泣いてすがる母を後にして、ジープは南へ。檻に入れられての汽車の旅、自然には無い人工ノイズの氾濫が強調され、さらに乗り換えてトラックの荷台での長旅の果てに辿り着いたのは、西オーストラリア最大の都市パースの北にあるムーアリバー収容所だった。大部屋にベットが並べられ、用を足すのは隅のバケツ、英語以外は禁止で、食事の前はお祈りを強要される寄宿舎生活。絶えず監視される監獄のような生活から逃れ、親に会いたくて脱走する者もいたが、収容所には凄腕の追跡人、アボリジニのムードゥ(デビッド・ガルピリル)がいて、脱走は不可能。すぐ捕まって見せしめの厳罰が処されるのだった。こっそり「デビル」とアダ名されるネビル局長お気に入りの「スワニー川」を合唱させられ、皆の前に呼ばれて肌の白さで選別される屈辱に耐えかねたモリーは、逃げ出して母の元へ帰る決意をする。「どうやって?」と尋ねる幼いデイジーに、モリーは「歩くの」と答える。「遠すぎる」というグレイシーも加わり、足跡や匂いが消える雨の日についに決行。ムードゥをいったんは捲くことに成功する。だが過酷な家路は始まったばかりだった。

2日後、ネビルは三人の脱走を知るが、すぐムードゥが捕まえると甘く見ていた。だが巧みにムードゥの追跡を逃れ、時にはアボリジニ男性や親切な白人女性にも助けられて逃げ続ける彼女達に、費用面で渋る警察隊と難儀な追跡交渉を続ける羽目になる。マスコミも嗅ぎ付け、保護局の面目も丸潰れだ。1ヶ月が過ぎた頃、ネビルは彼女達の目撃証言を地図と照らし合わせ、あることに気付く。「フェンスだ、ラビット・フェンスに沿っている…‥石器時代の生活をしていても、かなり頭がいい」と。そう、助力者のヒントでモリー達はウサギよけフェンスを見つけたのだ。それは遥か遠くのジガロングまで繋がり、そこでは母がフェンスを通して不思議なコミュニケーションをはかっていた。そしてネビルが気づいて挟み撃ちを命令した頃、ある旅人に近道を教えられ、またも裏をかくことに成功する。途中の農家でメイド兼性奴隷とされたアボリジニ少女に出会ったり、空腹と疲労から仲違いしたり、グレイシーの母の居留地を教えられて動揺したり…‥彼女達の苦難は続く。逃亡2ヶ月が過ぎた頃、モリー達は追っ手も引き返すような危険な砂漠地帯に差し掛かる。フェンスも壊れ、砂に消えてしまっていた。それでもモリーは最後の気力を奮い起こし、疲れきったデイジーを背負いながら、荒涼とした道なき道に踏み込んでゆく。果たして彼女達の運命は…‥?

【REVIEW】
「この映画は、アボリジニとか白豪主義とかを知らなくても感情移入できる映画だ。アボリジニであることの映画ではなく、人間でいることについての映画だ…(後略)」とロバート・ハリス(『ファーザーランド』『ワイルドサイドを歩け』『エグザイルス/放浪者たち』『エグザイルス・ギャング』などの小説家)が評している。そう、ある意味でこの映画は、母親から遠く引き離された14歳の少女モリーが、母に会うために1500マイル(約2400km)を徒歩で、サバイバルしながら帰郷する――というシンプルな、しかし力強い“実録”ロードムービーなのだ。6つ下の妹と4つ下の従妹を連れて、白人文化とアボリジニ文化がアマルガムとなった知恵を駆使して、混血児モリーは白人優位社会という「システム」に無意識に反逆する。「システム」に忠実な官僚ネビルは、それが互いにとって良いことと信じて、「システム」を円滑に動かすことだけに腐心する。「システム」の奴隷となったアボリジニ追跡人ムードゥは、アボリジニならではの「狩りの才能」を、自らの出自であるアボリジニを獲物として発揮することに生き甲斐を得る。そして「システム」下のさまざまな庶民達は、こっそりそれに反抗して少女達を助けたり、あるいは市民の義務として通報したり、疑義を抱いたり…‥とまとめてみると、実話なのに神話か伝説のようなキャラ配置だ。導く者となる“精霊の鳥”やフェンスを通してのテレパシー的交流、捕縛者を妨害する祈りなど、マジック・リアリズム文学の味もしっかりあって、「でも実話なのよ」と言われると、もはや「参った」としか言えないのだ。ま、とにかく主人公のひたむきさに打たれ、この神話にも似たエグザイル譚に、激しく感動した僕であった。迷わず「必見」といえる映画である。ただし考え込むことも若干あるんだけど…‥。

原作は、本作のヒロインの実の娘にして、母同様に「保護」されてしまい(4歳で!)、そのまま白人に同化させられて育ったドリス・ピルキングストンによるノンフィクション。製作・監督は『パトリオット・ゲーム』『今そこにある危機』『ボーンコレクター』などのフィリップ・ノイス。撮影監督にウォン・カーウァイ監督作品でおなじみ、自身でも『KUJAKU 孔雀』を脚本監督したクリストファー・ドイル。この二人もオーストラリア出身である。そしてピタガブことビーター・ガブリエルが久々に手掛けた映画音楽は、アボリジニ音楽も取り入れたスピリチュアルなものとなった。主演の三人、エヴァーリン・サンピ、ローラ・モナガン、ディアナ・サンズベリーはオーストラリア全土から1200人以上のオーディションを経て選ばれた、アボリジニの血を引く小さな女優達。個人的には妹役のティアナ・サンズベリーが可愛くってドキドキしたが、やはりエヴァーリン・サンピの逞しいひたむきさが感動を呼ぶ。アボリジニ保護局の局長ネピル役は、名シェイクスピア俳優にして監督もこなすケネス・ブラナー。無自覚な悪役として映画を引き締める。『ライト・スタッフ』『夢の涯てまでも』『クロコダイル・ダンディー』などに出演していたデビッド・ガルビリルも、プロの追跡人ムードゥをリアルに演じていた。

さて。背景にはオーストラリア政府官僚によるアボリジニ「保護」政策の独善(白豪主義)がある。定住せず国家的管理ができないオーストラリア先住民アボリジニは、その初期には虐殺され奴隷化され、または「荒野に追い払われ」(村上春樹『海辺のカフカ』下巻P153参照)、あるいは同化教育を施された。白豪主義とは雑にいえばそういう考え方だ。厄介なのは西欧文明化=同化させることは善意である、と、たった数十年前まで思い込まれていて、実は今も一部(?)で信じられていることだろう。1970年代以降、非ヨーロッパ系の移民も広く受け入れるようになり、文化的多元主義へと方針転換したオーストラリアだが、最近は反動勢力も出てきて微かに険悪な徴候もある。「盗まれた世代」アボリジニの文化的台頭がオーストラリアの精神文化に活力を与える一方、同じ大英帝国の息子にして「長男」であるアメリカにおけるネイティヴ(インディアン)文化(ドン・ファンの教え!)に対する「次男」オーストラリアなりの再演ないしヴァリアント(別Ver.?)とも冷やかされそうな感じもあって、深く考え出すと難しい。本作も、原作は白人化させられたアボリジニ混血女性によって「英語」で発表され、主にオーストラリア「白人」スタッフによって雄大なスケールで映画化され、そのことでやっと日本の観客にも届いたのだ――という事態の肯定的評価はなされるべきなんだけど、結局これは日本も含む「非アボリジニ側」による再搾取(サヨク用語だ)、つまり再び「盗む」ことなのかもしれない。あるいは僕らの「内なるアボリジニ性」(反国家主義とかノマディズムとか)を誘発させる犠牲的なヒントなのか? いや、本作の新聞広告チラシに引用されていた『海辺のカフカ』でいっちゃうと、「人々はじっさいには不自由が好きなんだ」と大島さんが言った後にくる「自由な」アボリジニ話(下巻P153参照←しつこいって)の結論部が問題なのだ。「結局のところこの世界では、高くて丈夫な柵をつくる人間が有効に生き残るんだ。それを否定すれば君は荒野に追われることになる」という、『裸足の1500マイル』のテーマからは真逆なようにみえるアドバイスに、どれくらいのバランスで「荒野に追われる」正しさもあると疑義を唱えるか?なのかもしれない。うーん、やっぱり難しい。そういう深みにハマることはやめて、雄大なオーストラリアの自然の中で繰り広げられる「普遍的な神話的冒険譚」として、ただ凄いと感動するだけでもOKとしたいんだけどね、ロバート・ハリスも保証していることだし。

あ、でもアボリジニの男の子を同じように隔離教化して、白人女性とくっつけるって選択肢は無いのか。ん? 白豪主義以前に白人男性の都合(避妊もせずに性的慰みものにして大量に生まれた子の認知問題にあたふたって感じ)じゃないのか。そこにこそフェミっぽく怒るべきなのかもなぁ。というかこの時代、追跡人以外のアボリジニ男は何をやってたのかが気になる。確か男は男で集団になって放浪していたはずだと思うんだけど、映画にはポツンポツンと一人旅してるのしか出てこないって存在感の無さにちょっと驚いた。ま、その分、追跡人ムードゥひとりキャラが立ってるんだけど。はてさて。余談であった。

Text:梶浦秀麿


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