|
||
【STORY】 郵便局で働く19才のトメク。毎晩8時になると、部屋の窓から向かいのアパートに住む年上の女性マグダの部屋を覗き始める。望遠鏡を覗きはじめてしばらくすると、決まってマグダが帰宅する。服を着替え、サンドウィッチを食べ、ミルクを飲む。それをみつめるトメクは幸せそうだ。けれど、時にやって来る恋人と抱擁し合うマグダの姿を、トメクはそのまま覗き続けていることが出来ない。レンズを通して、こんなふうにマグダの私生活を見つめ続けているトメクは、或夜、マグダが男と喧嘩してひとり泣いているのをみてしまう。彼は彼女を救ってあげたいと思うのだった。 ある日郵便局の窓口にマグダがやって来た。為替通知をもってきたのだが、そんな為替は局にはきていない。こんなことはもうこれで2度目になる。郵便局の人々に詐欺師呼ばわりされ、怒りに涙するマグダを追い掛けるトメク。そして、彼は長い間マグダを密かに思いつづけていた事、それから、毎晩部屋を覗いていた事を告白する。当然マグダは動揺し、異常な行為だと非難。 それでも徐々にトメクに心を開き始めたマグダの部屋で、マグダが泣いていた夜の事や恋愛について2人は話をしている。トメクの「愛しかた」が理解出来ないマグダに、愛しているのではなく、身体を求めているのだといわれ傷付くトメク。トメクが部屋を飛び出してしばらくすると、トメクの住むアパートの前に救急車が止まる。トメクを傷つけてしまった事を後悔し、不安になるマグダは、トメクの部屋の扉をたたく。 【REVIEW】 せつない。 初めて『愛に関する短いフィルム』を観たのは大学生の頃。その20歳くらいのころに、恋愛ってせつなくて、素敵だなぁ…と、これからの人生でこんな風に人を愛することがあるのだろうか…?と思った。当時は、東欧の映画や思想に、今以上になじみがなかったこともあって、その感想の中には、多少なりとカルチャーショックみたいなものもあったかもしれない。(そもそもヨーロッパの恋愛観は日本のそれとはかなり違うので。)なんとなく、地味ながら衝撃的な映画だと思ったのを覚えている。 19才のトメクと同年代の時から随分と年月を経て、マグダ側の年になった今この映画を再びみてみる。10年以上の年月を経ても、視点はやはり主人公トメクより。 どうしてだろう?と考える時、こんなふうに思った。それは、年齢や性別を越えて、トメクの姿には、どんな人の中にもある“愛すること”の根本をみてしまうからではないか?トメクの愛は人間の普遍的な感情に共鳴している。年をとったからといって人の純粋な感情は変わらない。 けれど、この年になってはじめて理解できるところも勿論ある。というのは、素敵な恋愛をして来れたかは別にして、それでも少しは大人になって(なっているはず)、いろいろな人に出会い、いろいろな価値観みたいなものにも触れてきた上で、キェシロフスキーの愛の世界に再会した時になって初めて、当時受けた衝撃が、安にカルチャーショックではなかったということ。きっと、人は誰もが持っていて、けれどなかなか自分自身では気付かない感情の側面を、目の前に見せつけられた時に動揺しショックを受けるんだと思う。それが大学生の時に受けた衝撃の実体だったらしい。だから、今久し振りに観てまた同じように衝撃を受け、いろんなことを考えさせられてしまう。 『愛に関する短いフィルム』というミニマルなタイトルの映画の中に描かれているものは、まさしく究極の愛の形。どんなに華麗な恋愛をしている人でも“みつめる”ことは恋愛のネットな姿なんだと思い出したりするのではないでしょうか? 「どうしてなくの?」というトメクのことば。たしかにどうして人は泣くのでしょうね。 Text:kodama yu Copyright © 2003 UNZIP |