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「21世紀の愛の賛歌」=滅びゆく男達への「鎮魂歌」? アルモドバル版『眠れる森の美女』は、おそらく男性には切なく哀しい。 【REVIEW】 「アカデミー外国映画賞やカンヌ国際映画監督賞など60以上の映画賞に輝いた『オール・アバウト・マイ・マザー』から3年。アルモドバル監督が贈る21世紀の愛の賛歌」ってのが本作の宣伝コピーであり、さらに本作自体もアカデミー脚本賞、ゴールデングローブ最優秀外国語映画賞などを獲得している。いわゆる太鼓判つき「感動の名作」だ。でもこの映画、実はヘテロな(異性愛者の)男性へのレクイエムではないか。つまりダンスや歌の引用、女性美の描写で巧みに隠しつつ、男達の「一方的な愛」の究極例を全うさせ、もはや彼らは破滅するか「見守るだけの者」として哀しむしかない、と宣告する“怖〜い話”、みたいな? 物語の本筋は、植物状態となった二人の女性を見守ることになる、孤独な男二人の友情を描くものだ。バレリーナ志望だったアリシアを4年も介護し続けるベニグノ(若手哲学者の東浩紀に似てる!)の愛は、だが一方的だし歪んでもいる。彼は彼女へのフェティッシュな愛しか知らないし(他者性の欠如)、劇中映画『縮みゆく恋人』で示唆されるように、他者愛というより母胎回帰願望から“事件”に及んだとも解釈できる。一方、ジャーナリストのマルコも、女闘牛士リディアや元恋人ら、別の人を愛する女性を「見守る」役回りしか与えられない。その上、ベニグノ(彼も他人を愛している!)の欲望に感染して、孤独な哀しみをいや増すばかり。滅びゆく男達への「鎮魂歌」は、それ故に切なく美しいのか? Text:梶浦秀麿 Copyright © 2003 UNZIP |