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子供達に聖書の「創世記」を読み聴かせる母親の声……昔の子供向け小説の挿絵のようなイラストがアヴァンタイトルを彩り……幼い笑い声がして、悲鳴を上げながら飛び起きるグレース(ニコール・キッドマン)。時は1945年、所は第二次世界大戦末期の英国チャネル諸島のジャージー島。早朝の霧に煙る広大な洋館に、3つの人影が近づいてゆく。館の女主人であるグレースは、地元の新聞に載せた使用人の募集広告を見てきた者だと思い、彼らを招き入れる。老いたミセス・ミルズ(フィオヌラ・フラナガン)、まだ若いが口のきけない娘リディア(エレーン・キャシディ)、庭師のミスター・タトル(エリック・サイクス)の3人は、いかにも“召使い”然としていたからだ。「先週使用人たちが突然消えてしまって困っていたの……主人は1年半前に出征したまま戻ってこないし」と、留守を一人で守っている自負のせいか、神経質な口調で話し続けるグレースは、彼らに口を挟む余裕も与えず、「ドアは50、鍵は15……音楽室のピアノは子供達に触らせないで……」と“この家の規則”を矢継ぎ早に説明し始める。そして分厚いカーテンを閉めてから、娘のアン(アラキナ・マン)と息子ニコラス(ジェームズ・ベントレー)を紹介するのだった。幼い2人の子供は極度の日光アレルギーを患っているため、各部屋のドアはその都度必ず鍵をかけてから次のドアを開けるように、そして「静寂を重んじる」家風なので電話もラジオも無し、ピアノも鍵をかけたままにしておくこと……などと細かなルールが告げられてゆく。子供達の教育はグレースがやっているが、聖書をテクストにして「嘘をつくと子供リンボ(地獄)に堕ちる」と脅かしたり、かなりエキセントリックな偏りがあるようだ。そのまま雇われることになった3人だが、翌日、まだ求人依頼の手紙を郵便夫が取りに来ていないことに気づいたグレースは、ミセス・ミルズを問いつめる。「実は以前、この屋敷で奉公していて、今回は飛び込みで使用人に雇ってもらいに来たのです」と明かす彼女に、釈然としないグレース。だが、その頃から屋敷に不思議な現象が起こり始めていた。アンは知らない男の子と話したと言い出すし、誰もいないはずなのに足音や話し声が聞こえ、ピアノが独りでに鳴り出す……。「占領下の5年間ナチさえ一歩も入れなかったこの屋敷に、誰かが勝手に侵入している」と憤慨する彼女はだったが、だがアンの描いた老婆と若夫婦と男の子の絵、しかもそれぞれを目撃した回数まで書き込んだ絵を見せられて、タチの悪い嘘だと叱りとばすのだった。「でも、もしかすると娘の言うことは本当かもしれない。それともあの使用人達の仕業?」----女主人の精神状態はピリピリと張りつめてゆく。夫が帰ってきさえすれば……と気丈に耐えながらも、緊張はもはや限界を超えようとしていた。ミセス・ミルズはこの奇怪な状況の原因について、何かを知っているようなのだが……。そして事態は驚愕の真実へと突き進んでゆく!。
いやぁ怖いッス。いわゆる“ホーンテッド・ハウス(呪われた館)もの”パターンなんだけど、例えば超常現象をCGで見せまくっちゃった『ホーンテッド』なんかと比べると怖さは段違い。鳥肌ゾクゾクって感じ。霧の多い孤島にポツンとある洋館に、母と二人の子供だけが住んでいて、三人の使用人が雇われ、それから超常現象が頻発する!----というのが『アザーズ』の発端なんだけど、なんでそれまでの使用人がいなくなったのかとか、ヒロインで視点人物となる母親がエキセントリック過ぎて感情移入しにくいとか、それゆえ子供の病気は本当なのか疑わしいとか、とにかく初期設定の特殊さが、観る者をふわふわした曖昧な気分にさせたまま後半まで観客をグイグイひっぱるのだ。これ、欠点と言えば欠点だが、要所要所のドキッとする怖さの演出が凄いので、真相が判明するまでドキドキしっぱなしで楽しめたのであった(「勘のよいヒトならオチは最初の5分で見抜ける」なんて週刊プレイボーイ4/23号で馬場広信センセイが書いてたけど、それは大人気ないっていうか……)。 トリッキィな脚本は前作『オープン・ユア・アイズ』でもご存じの通り、俊英アレハンドロ・アメナーバル監督(詳しくは記者会見レポート参照)の十八番。んでドンデンな展開でひっくり返した後、最終的に「愛とは何だろう?」みたいなシンミリ系で泣き落として魅せるってのも、ハリウッド風娯楽サスペンス映画とはひと味違う感触で、なかなか興味深い味わいが残るのだ。前作より雰囲気重視で、伏線として納得のいかない(ツジツマあってないような)部分も多々あるけど、格調高いトーンでまとめた上質なホラー映画に仕上げてあるので、その「品のよい感じ」をこそ楽しんで怖がって欲しい。主演はニコ−ル・キッドマン。個人的には『ムーラン・ルージュ』のヒロイン役も怖かったんだけど(笑)、本作のピリピリしたヒステリー気味の高慢ちき女主人って役をテンション高く演じているのも、なんとも静かに怖い。あるシークエンスで登場する夫のチャールズ(演じるのは『シャロウ・グレイブ』『日蔭のふたり』『HEART』などのクリストファー・エクルストン)が帰ってこないのも、実は妻が怖いんじゃないかって思わせるくらい(笑)。どうも脚本を越えて、ミステリーで言う「信用できない語り手」役を過剰に演じているようなニコ−ルなのであった。あ、口のきけない若い召使いリディア役のエレーン・キャシディは『フェリシアの旅』のヒロインだったりする。 それにつけても「シニックで身も蓋もない隠し味」は“お国柄”なんだろうか。アメナーバル監督作品だと『殺人論文/テシス』のそのマンマな殺人研究ネタや『オープン…』での「醜男になって不幸になる」って直球過ぎるアイデア、あるいは本作の偏ったキリスト教批判や、作中の重要アイテムとなるアルバム=現代の目から見ると悪趣味な19世紀流行の死体寝姿集とかが、個人的には“スペインっぽい”ビザールorデテステな感触を醸し出してると思えるのだ。他のスペイン映画だと例えば『オール・アバウト・マイ・マザー』のエイズ・ネタ、しかも奇跡のSFオチ!も、目が点になるヘンテコさだったし(まあ『オール…』のペドロ・アルモドバル監督は『バチ当たり修道院の最期』『神経衰弱ぎりぎりの女たち』『アタメ 私をしばって!』『ハイヒール』『キカ』って過去の作品名だけでも、そのヘンテコさは際立ってるんだけど……)。なんにせよ“奇想”の伝統は確かにあると思う。本作『アザーズ』も堂々たる“ゴシック・ホラー”の皮をかぶっているけど、その哲学的とさえ思える“奇想”の新しさは独特のものがあるのだった。ま、今回ちと惜しいのは“あの例の傑作映画”以来、ネタバレ禁止の大どんでん返し映画が流行ってしまってることだなぁ。 ちなみに僕が大好きな大英文学者、高山宏が文学(岩波書店)01年11・12月号で書いてた「『ホーンテッド・ハウス』論今般」ってのが、スティーブン・キング『IT』を中心に過去の怪奇小説やミステリーを追いつつ、「家と精神の相似構造(ないし入れ子構造)」について鋭い考察をしていて凄く面白かったのだ。これを読んで本作を観れば、深読み版の『アザーズ』論ができるはず。タイトル自体もポスト・モダンな「他者」だし、1945年を舞台にしていることなどから刺激的な作品論になるのは必至。でもネタバレになるので詳細は秘密かな(笑)。本作を観る人はぜひ参考にして欲しいとだけ書いておこう。余談であった。 Text:梶浦秀麿 Copyright (c) 2001 UNZIP |